奇蹟の椰子の実


靖国神社御創立百三十年に寄せて

              平成十一年九月九日記
  小会相談役 元沖縄県護国神社宮司 現本渡諏訪神社宮司 大野 康孝



本年御創立百三十年記念の年を迎えられた靖国神社には、数々の英霊顕彰奉慰の記念の大事業中、
特に、御祭神の真に魂の雄叫びとも申すべき御遺書御遺品等を掲示する遊就館の改修と新館の建設に尽力
しておられる事は、御周知の事と存じます。
「ご遺族、戦友の方々の思いを御世に伝えるとともに、御祭神の御神徳を弘め、次代を担う青少年を
育むことにあります」と趣旨を開陳され「国を思い、故郷を愛し、家族を慈しみつつ散華された
御祭神の御心に対して、現在の安寧なる社会に浸る私共の責務ではないでしょうか」と
『やすくにの祈り』を説かれています。
私は皇学館在学中の昭和四十五年に初めて靖国神社に参拝し、その頃は遊就館は未だ再開されていませんでしたが、
御遺書と遺品の数々を拝して凛然たる身の震えるような強烈な想いを抱いた事を覚えています。
その後、上京の度に参拝しておりましたが、奇しくも昭和五十二年三月、同神社の推挙を受けて沖縄県護国神社の後任宮司として
彼の地に赴き、ふるさとの父祖累代奉仕神社の七百年式年大祭を期しての帰郷まで、この間六年半を彼地に過ごしました。
さて、一昨年の九月八日、名誉宮司とともに靖国神社に献穀参拝をいたし、遊就館に御創立百三十年記念特別展を
拝観してまいりましたが、洵にすばらしい特別展でした。

あまた肺腑をえぐる凛々たる後遺品遺書等のその中に「三十一年間漂流しつづけて妻のもとにたどり着いた
奇跡のヤシの実」が、これを流された英霊とそのヤシの実を三十一年後に故郷にて受け取られた戦友の相並んだ往時の写真が
ともに展示されています。
実は、私がこのヤシの実の話を聞き大きな感動を覚えたのは、沖縄の奉務に参ったその年のことでありました。
退職後も、沖縄の全県下すべての離島を含む市町村の慰霊碑の代表を洩るる事無く、空をまた海をかけて、奉仕を修めて
帰郷したのですが、濤々と海鳴り聴かせて北上する黒潮をまなかいに見聴きして、愈々、英霊の実在をこの奇跡のヤシの実に
想いをはせつつ、かつての戦場に英霊の息吹きを感応して奉仕にあけくれたのでした。
以下、遊就館に展示の「奇跡のヤシの実」の説明全文をご紹介します。

「ルソン島サンタクルーズにて戦死した島根県出雲市出身の陸軍軍属山之内辰四郎命(マニラ陸軍船舶司令部所属)が、
戦死一年前の昭和十九年(一九四四)七月、戦況いよいよ悪化し、マニラ市を退避するに当り望郷の念断ちがたく、
病院船勤務の同郷の友、陸軍伍長飯塚正市の名も書き加え、マニラ湾に流したこのヤシの実が、
三十一年の歳月を経て昭和五一年三月十五日戦友の住む大社町の港に漂着した。
これを発見した同町の岡貞吉が、よくよく見ると墨書の「陸軍伍長飯塚正市君」と読み取れ、然も飯塚正市が出雲市に
健在なるをつきとめ、ヤシの実は飯塚正市から山之内辰四郎命の未亡人きよ子の手に届けられ、
夫人より神社に奉納された。
三十一年間の長い年月大海原を漂流し続けた悲願の籠るヤシの実は、こうして故郷にたどり着き、戦友と妻の
暖かい胸に抱かれたことは、まさに奇跡といえよう」

ああ、正に神業であります!

英霊の魂の乗り移った神そのものの靖国神社に鎮まる奇跡のヤシの実。
天神地祇八百萬神等の大御恵の顕現にして、霊魂実在の証なるや靖国神社遊就館。
感動が甦り、胸昴なってやみません。
よくぞ山之内辰四郎命、島崎藤村の「椰子の実」の歌を想いだして、墨痕淋漓と戦友の名も共に記して、祈りも深く
流したもうた。
畏くもよくぞ出雲大社の大御神には之を壽したまいて、天神地祇八百萬神等を神集いに集わせ給い、神議りに議り定め
たまいてご加護も著しく、水漬き草生す忠霊を更にこのヤシの実に憑らせ給いて引き寄せたまいた。
ああ、遥けくも赤道越えて遠くかそけきフィリピンより北へ北へ!
最愛の妻待つ祖国日本の出雲の国は大社の港へ。
ああ、日本の神々よ、靖国神社の魂よ、かくも導き給い着かせ給うた!
ふるさとの岡貞吉氏をしてよくも拾わせ、気づかせ給うた!
戦友飯塚正市氏を無事に祖国に帰らせたまい健在ならせて、よくぞ最愛の妻きよ子夫人にこのヤシの実を
手渡せたもうた!
夫人は吾が手許におくよりもと靖国神社にご奉納。
かくして奇跡のヤシの実は遊就館に安らけく鎮まり給うたのでした。
奇しくもこの昭和五一年、宮中歌会始御題「海」のその預選歌に、次のような歌がありました。

ソロモンにつづくこの海なぎわたる かもめとなりて還れ弟 (奈良県 中野京子)

私はこの歌にことさら遺族の心情を、英霊を慕う心に通う霊魂の行き交いに、吾が子を
この聖戦に捧げられた折口信夫先生、釈迢空の歌が重なって想いだされます。

たたかひに果てにし人をかへせぞと 我は呼ばむとす大海にむきて

やがて、この年三月十五日、名こそ形こそ異なれどあまたの英霊の魂の実存を顕らめて、
先の預選歌に応うるが如く、奇跡のヤシの実は故国日本へとよくも堪えて帰り着くのです。
遊就館に参れば、すべての英霊の声がいますが如くに響いてきます。
英霊は不滅であるばかりか生きて語らいかけてくるのです。
「至誠通神」私達は神主。
神の実在を固く信じ、之を明らかに宣揚すべき責務使命があります。
天地の神々の御声をかしこみて、このくらげなす漂える混迷の祖国日本を修理固成しなければなりません。

創建立百三十年の靖国神社の息吹きをかぶふりて、英霊に答え奉るべく神国日本の祈りに、
共に生命の限り一心に頑張ろうではありませんか




寄稿  平成十五年七月十二日


尚、申すまでもなく、康孝兄の父君は前靖国神社宮司 大野俊康殿であります 






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