我が友、大野康孝 本渡諏訪神社宮司


悲報 本渡諏訪神社大野康孝宮司 闘病の甲斐なく本日逝去されました 享年67歳



名古屋では、ひつまぶしよりいつも味噌煮込みうどんをリクエストされ、毎回お土産として熊本に持ち帰られました。
平成24年12月13日名古屋守山


謹んで哀悼の誠を捧げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 合掌

   平成二十八年五月二日


 通夜 5月3日(火) 19:00〜

 告別式 5月4日(水)13:00〜

会館名: 天寿殿

住所 : 〒863-0002
天草市本渡町広瀬 465-2

電話番号: 0969-22-0002 です。



平成28年5月2日


朋あり遠方より来る、また楽しからずや パートU 平成26年9月13日 





平成26年9月13日、大野康孝宮司が名古屋にお越しになったので、伊藤好雄先輩を誘って一宮の味噌煮込みうどんの名店で一献。
新しい話題や、懐かしい思い出話に花が咲いた事は言うまでもありません。


 平成26年9月16日



平成22年8月23日、熱田神宮にお越しになられた帰りに小牧空港でお食事。この時も味噌煮込みうどんを食された。
平成15年に禊会が再開されて以来、毎年伊勢ではお会いしています。




     長谷川裕行       大野康孝      笠原正敏
大野康孝、御尊父大野俊康靖国神社宮司宅にて 平成7年10月(戦後50年 村山談話の年 御尊父に撮って頂いた貴重な一枚)




昭和57年(1982年) 沖縄県護国神社の宮司時代に1ヶ月間居候させてい頂いた。那覇の自宅で。



熊本県本渡諏訪神社




熊本県本渡諏訪神社本殿


本渡諏訪神社(ほんどすわじんじゃ)

★ 住 所 熊本県本渡市諏訪町8-3
★ 電 話 0969-22-3480

★ 御祭神 建御名方命(たてみなかたのみこと)
      八坂刀売命(やさかとめのみこと)

★ 御神徳 商売繁盛/交通安全/厄除け/家内安全

 本渡諏訪神社の創立は弘安6年(1283)8月1日。

由来は、鎌倉時代の文永11年(1274)弘安4年(1281)の2度にわたる「元冦」の折、

本渡城主であった天草大夫大蔵太子という女傑が、水軍を率いて出陣した。

その時諏訪大明神の御加護により風神が守ってくれたので、

その神恩に感謝し、2年後に天草氏領土内の総鎮守として、

信州諏訪の御本社より御分霊を奉じたのが同神社の創始とされている。

また、平成7年には境内整備事業が進み、商売の神様である「恵比須神社」も復興された






大野康孝宮司 座右の銘





本渡諏訪神社 大野 康孝 宮司



平成26年3月21日 大野宮司を訪ねた笠原正敏会長






天草方面にお立ち寄りの節は、是非お参り下さい。



平成二十一年六月 神道講演研修全国大会 於 水戸市・茨城県神社庁


誠 は 天 の 道 な り


―  徴古館開館百周年記念展に向けて  ―


大 野 康 孝


 人は皆神の子。神社の教え神道では、人みな此の顕世を身罷ればその故人の姓名に命の字を付し祖霊の神と高まり安らかに
鎮まりますように≠ニ、手厚く祀ります。
 それは、人それぞれが八百万神々の一人として天与の事依さし℃g命のまにまに、天が下の芦原の中つ国に生き死にして、
地上に神のみこと持ち≠ニして役割を分担し果たして、誠を尽くして人生を全うすべきであるからなのです。

*  *  *

 私の座右の銘は、『誠は天の道なり、これを誠ならしむるは人の道なり』です。
 この維新黎明の地水戸の碩学勤皇の志士、藤田東湖先生の墨跡が史蹟弘道館の売店より広く頒布され、つとにその書が高名ですが、
その出典は支那の礼記中庸です。
 この教えの「天」を「神」と置き換えて読み解き行けば、「神の道は人の道」と理解でき「人の道は神の道に通ずる」との事が
よくよく判り得ると思います。東湖先生もまた、これを信條として尊攘の志道に至誠もって生死されたのでした。

*  *  *

 さて昨年、神都伊勢での神道講演研修全国大会終了後に神宮の博物館である徴古館を訪ねました。
その折に同館の堀川館長ならびに深田学芸員より、明治四十二年開館以来実に百年を迎える平成二十一年度開催の
『徴古館開館百周年記念展』の企画と構想をお聴きし、就中、新春企画展「神宮の刀」への協力を要請されたのでした。

*  *  *

 そのパンフレットの行事案内書の中には、以下のように記してあります。
 『現代刀の百年―復興と継承―』神宮式年遷宮ごとに新たに調えられる六十振りの御太刀。
明治の廃刀令と昭和の敗戦の二度に及ぶ作刀技術存続の危機にあって、式年遷宮が復興のきっかけとなりました。
 本展では明治以降、御太刀調製に関わった刀匠の経歴と作品を紹介し、また敗戦による式年遷宮の延引と斎行、
日本刀の所持並びに製作の禁止とそれらが許可されるまでの法制資料を公開して、現代刀復興の軌跡と式年遷宮が
我が国の文化継承に果たした役割を明らかにします。…と、その趣旨が端的に述べられています。

*  *  *

 数ある神宮の御神宝の中でも最も位列の高いのが御太刀であり、その外装です。
 徴古館ではこの五年間、年頭を飾る新春企画展として毎年正月元日より二ヶ月間、『神宮の刀』展を催して来られました。
その第一回より第三回迄が「将軍奉納刀」展。昨年の第四回がー聖上の御心を拝してーとして天皇陛下が捧げられた
「御奉納刀」展。  
そうして本年はー館蔵品名刀とともにーと題して「御神宝御太刀」展を開催し、この様にその度毎に立派な図録を発行し続けておられます。
 そして来年度の徴古館開館百周年記念展の準備にあたって是非、君に協力して欲しい≠ニの有難いお話であったのでした。

*  *  *

 私の卒業論文は「肥後敬神党―神風連の研究」、神主としての生涯の課題です。
 ですから日本刀に関する想いは所持鑑賞のみならず、特に神話の解釈から始まってその歴史沿革に学びつつも
「剣の魂・神武の心」が奈辺にあるか、なのです。
 更には、厳しくも美しい神秘的なる刀剣の製作及び研磨の技術や刀装具に至る職方の領域まで興味が進み昂まって、
今や趣味の域を超え道楽とまで進みつつあります。
 この先は極道です。…もはや、慎まなければなりません。

*  *  *

 さて今回の協力要請の趣旨は、未曾有の敗戦汚辱を払拭して昭和二十八年秋見事に斎行なった日本民族独立再興の証、
『第五十九回神宮式年遷宮』の御神宝御太刀製作者全国十三名の刀匠中、熊本県より奉仕された隈部忠利刀匠と
その製作刀の調査でした。
 かねてその栄誉とお名前だけは聴いてはいましたが、郷土の誇りと仰ぐこの刀匠の作品のみが八方手を尽くして探しても、
一振りも発見できぬとの事なのです。

*  *  *

 只今も刃物鍛冶を営む遺家族や門流の現役刀匠ならびに研師の面々、出身地の役場や教育委員会、
県内外の刀剣商や?日本美術刀剣保存協会熊本県支部をあげて調査しても皆目見当がつかぬのです。
半年を経ても尚、未発見でした。
 そのうちに、東京からも福岡からさえも私の処に問い合わせが参ります。
 阿蘇神社の台帳にあった筈だと思い返し連絡してみますが、むしろ阿蘇神社の宮司様や同社の学芸員からも却って
探索の依頼が帰って来る始末です。
 熊本県教育庁文化課に問合わせて刀剣登録の台帳を閲覧できれば、立ち所に調査の糸口が判明し解決するのですが、
守秘義務により、その協力要請が適わないのです。

*  *  *

 神宮徴古館当局では、最終的には隈部刀匠の作品ぬきで之を開催するしかないとの、刀匠や郷土にとって実に
不名誉な結論を取らざるを得ぬ方向に傾いていたようです。
 私は現在、熊本県神社庁神宮式年遷宮特別対策委員会の副委員長。そして、?日本美術刀剣保存協会熊本県支部の
理事の立場でもあります。

ましてや神職としての資格は、この伊勢倉陵の皇學館大學に学んで取得しました。
生命すらも大神様に護っていただき現在があります。…洵に残念でなりません。
 天余の事依さし$_々から与えられし使命、その役目を是非、全うしたいのです。
天照皇大神のみことを畏みまつり、その成就を必死に祈り行じなければなりません。

*  *  *

 鎮魂帰神…原点に立ち帰って探索することにしました。
 隈部刀匠の敬神の念と鎮守の神様の調査です。産土神社の若宮神社では、近年まで例祭時に真剣を用いての
「肥後神楽」が奉納されていた事が直ちに判りました。
はやる心を押さえつつ、未だお会いした事なき同神社ご奉仕の日方宮司様に早速、連絡を取って一気に事の次第を説明、
御刀の事をお伺いしたのでした。
「ああ、隈部さんの奉納刀ですか、二振りありますよ。」あっさり明るい返事がかえって参りました。暁光です!
ああ、遂に神の啓示を賜ったのです。           

*  *  *

 愈々高まる鼓動をひたすら抑え、近日中に伺う事を直ちに申し入れた次第でした。返す刀で、
同じ下益城郡支部所属の佐俣阿蘇神社にご奉仕の船原宮司に正式な紹介と若宮神社へのご案内をお願いしました。
…ごく親しい特別の関係の一期先輩です。
 何と、「ああ、その隈部さんの奉納刀、うちにもあるよ!」との事。
涙が一気に堰切りとめどなく溢れ出て止みません。…ああ、至誠が天に通じたのです!
 神武天皇ご東征の折に、夢に神の命を受けて天剣を捧げまつった高倉下の心境です。
 吾もまた高倉下なり天が下 神武の剣ささげまつらん=c拙い歌を詠みました。
 暗雲が一気に切れ、天照皇大神の御光が燦々と照り輝き始めました。期待に背筋が伸びます。
まさに、サムシンググレート!…私の責務はどうやら果たせそうなのです。

*  *  *

 折しも春休みで、皇學館大学神道学科に先年入学した長男が帰省中でした。その晩私は祝杯を挙げつつ、
こみあげ来たる此の感激を妻子に語り伝えたのでした。
 明けて、徴古館開館を待っての朝一番の喜々たる朗報に、館長並びに主任学芸員の喜びが受話器の向こうから伝わり来ます。
午後からは、長男同道で往復四時間余の道程を駆けてその二社を参拝し、隈部刀匠奉納の御刀調査に伺う事にしました

*  *  *

 船原先輩ご奉仕の佐俣阿蘇神社の御神刀は、「昭和二十七年十月吉日 肥後住忠利」と表裏にあざやかに刻銘の
二尺六寸に迫る堂々の太刀でした。しかも上品静穏…一見して天下の名刀来国俊を目指したと想える、
渾身の直刃出来の高位の太刀なのです。
 そしてその白鞘には墨痕淋漓と、隈部刀匠自筆の鞘書が遺されているのでした。
 何と、第五十九回神宮式年遷宮斎行前年の年季銘、御神宝太刀製作と同時期作です。
この頃は未だ刀剣の製作は許されていなかった筈、まさに式年遷宮の御為に、特別に許されて打ち鍛えられた御太刀なのです。

*  *  *

 日方宮司奉仕の若宮神社には、もう一振り見事な隈部刀匠奉納の豪刀がありました。
昭和十三年、刀匠として独立後始めて打ち鍛え、新作日本刀展第七席の栄誉に輝いた重厚幅広猪首の剛刀です。
銘文から音に聞こえた栄誉の作であることが判りました。
 そして表裏に振り分けて、「奉・納」と追刻してあります。
 私の感激は更に重なり、昂ぶる胸の震えは治まりません。同行の長男も解っているようです。…神の実在、
その証を目の当たりに感応して静かに堪えているのです。           

*  *  *

 つい三日前の六月二十二日、研師を始め各職方の協力で最上の仕上げを得、全てが修復なったこの
『徴古館開館百周年記念展』出展の二振りの御神刀は、一旦、それぞれの神社に納まりました。
…そして九月には、神宮徴古館へと旅立つのです。

*  *  *

 明治天皇御製 
 
 目にみえぬ神の心にかよふこそ 人の心のまことなりけれ

『誠は天の道なり、これを誠ならしむるは人の道なり』ご静聴有難うございました。
  
(熊本県 本渡諏訪神社 宮司)


平成21年7月15日


奇蹟の椰子の実


靖国神社御創立百三十年に寄せて

              平成十一年九月九日記
  小会相談役 元沖縄県護国神社宮司 現本渡諏訪神社宮司 大野 康孝



本年御創立百三十年記念の年を迎えられた靖国神社には、数々の英霊顕彰奉慰の記念の大事業中、
特に、御祭神の真に魂の雄叫びとも申すべき御遺書御遺品等を掲示する遊就館の改修と新館の建設に尽力
しておられる事は、御周知の事と存じます。
「ご遺族、戦友の方々の思いを御世に伝えるとともに、御祭神の御神徳を弘め、次代を担う青少年を
育むことにあります」と趣旨を開陳され「国を思い、故郷を愛し、家族を慈しみつつ散華された
御祭神の御心に対して、現在の安寧なる社会に浸る私共の責務ではないでしょうか」と
『やすくにの祈り』を説かれています。
私は皇学館在学中の昭和四十五年に初めて靖国神社に参拝し、その頃は遊就館は未だ再開されていませんでしたが、
御遺書と遺品の数々を拝して凛然たる身の震えるような強烈な想いを抱いた事を覚えています。
その後、上京の度に参拝しておりましたが、奇しくも昭和五十二年三月、同神社の推挙を受けて沖縄県護国神社の後任宮司として
彼の地に赴き、ふるさとの父祖累代奉仕神社の七百年式年大祭を期しての帰郷まで、この間六年半を彼地に過ごしました。
さて、一昨年の九月八日、名誉宮司とともに靖国神社に献穀参拝をいたし、遊就館に御創立百三十年記念特別展を
拝観してまいりましたが、洵にすばらしい特別展でした。

あまた肺腑をえぐる凛々たる後遺品遺書等のその中に「三十一年間漂流しつづけて妻のもとにたどり着いた
奇跡のヤシの実」が、これを流された英霊とそのヤシの実を三十一年後に故郷にて受け取られた戦友の相並んだ往時の写真が
ともに展示されています。
実は、私がこのヤシの実の話を聞き大きな感動を覚えたのは、沖縄の奉務に参ったその年のことでありました。
退職後も、沖縄の全県下すべての離島を含む市町村の慰霊碑の代表を洩るる事無く、空をまた海をかけて、奉仕を修めて
帰郷したのですが、濤々と海鳴り聴かせて北上する黒潮をまなかいに見聴きして、愈々、英霊の実在をこの奇跡のヤシの実に
想いをはせつつ、かつての戦場に英霊の息吹きを感応して奉仕にあけくれたのでした。
以下、遊就館に展示の「奇跡のヤシの実」の説明全文をご紹介します。

「ルソン島サンタクルーズにて戦死した島根県出雲市出身の陸軍軍属山之内辰四郎命(マニラ陸軍船舶司令部所属)が、
戦死一年前の昭和十九年(一九四四)七月、戦況いよいよ悪化し、マニラ市を退避するに当り望郷の念断ちがたく、
病院船勤務の同郷の友、陸軍伍長飯塚正市の名も書き加え、マニラ湾に流したこのヤシの実が、
三十一年の歳月を経て昭和五一年三月十五日戦友の住む大社町の港に漂着した。
これを発見した同町の岡貞吉が、よくよく見ると墨書の「陸軍伍長飯塚正市君」と読み取れ、然も飯塚正市が出雲市に
健在なるをつきとめ、ヤシの実は飯塚正市から山之内辰四郎命の未亡人きよ子の手に届けられ、
夫人より神社に奉納された。
三十一年間の長い年月大海原を漂流し続けた悲願の籠るヤシの実は、こうして故郷にたどり着き、戦友と妻の
暖かい胸に抱かれたことは、まさに奇跡といえよう」

ああ、正に神業であります!

英霊の魂の乗り移った神そのものの靖国神社に鎮まる奇跡のヤシの実。
天神地祇八百萬神等の大御恵の顕現にして、霊魂実在の証なるや靖国神社遊就館。
感動が甦り、胸昴なってやみません。
よくぞ山之内辰四郎命、島崎藤村の「椰子の実」の歌を想いだして、墨痕淋漓と戦友の名も共に記して、祈りも深く
流したもうた。
畏くもよくぞ出雲大社の大御神には之を壽したまいて、天神地祇八百萬神等を神集いに集わせ給い、神議りに議り定め
たまいてご加護も著しく、水漬き草生す忠霊を更にこのヤシの実に憑らせ給いて引き寄せたまいた。
ああ、遥けくも赤道越えて遠くかそけきフィリピンより北へ北へ!
最愛の妻待つ祖国日本の出雲の国は大社の港へ。
ああ、日本の神々よ、靖国神社の魂よ、かくも導き給い着かせ給うた!
ふるさとの岡貞吉氏をしてよくも拾わせ、気づかせ給うた!
戦友飯塚正市氏を無事に祖国に帰らせたまい健在ならせて、よくぞ最愛の妻きよ子夫人にこのヤシの実を
手渡せたもうた!
夫人は吾が手許におくよりもと靖国神社にご奉納。
かくして奇跡のヤシの実は遊就館に安らけく鎮まり給うたのでした。
奇しくもこの昭和五一年、宮中歌会始御題「海」のその預選歌に、次のような歌がありました。

ソロモンにつづくこの海なぎわたる かもめとなりて還れ弟 (奈良県 中野京子)

私はこの歌にことさら遺族の心情を、英霊を慕う心に通う霊魂の行き交いに、吾が子を
この聖戦に捧げられた折口信夫先生、釈迢空の歌が重なって想いだされます。

たたかひに果てにし人をかへせぞと 我は呼ばむとす大海にむきて

やがて、この年三月十五日、名こそ形こそ異なれどあまたの英霊の魂の実存を顕らめて、
先の預選歌に応うるが如く、奇跡のヤシの実は故国日本へとよくも堪えて帰り着くのです。
遊就館に参れば、すべての英霊の声がいますが如くに響いてきます。
英霊は不滅であるばかりか生きて語らいかけてくるのです。
「至誠通神」私達は神主。
神の実在を固く信じ、之を明らかに宣揚すべき責務使命があります。
天地の神々の御声をかしこみて、このくらげなす漂える混迷の祖国日本を修理固成しなければなりません。

創建立百三十年の靖国神社の息吹きをかぶふりて、英霊に答え奉るべく神国日本の祈りに、
共に生命の限り一心に頑張ろうではありませんか


寄稿  平成十五年七月十二日


尚、申すまでもなく、康孝兄の父君は前靖国神社宮司 大野俊康殿であります 








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