「伝統と革新」第3回

「民族派学生運動」「新右翼」から「真右翼」への変遷

我が体験的維新運動史  第3回

八千矛社 代表 犬塚博英 

中学時代に経験した炭鉱閉山

小学校六年、昭和三十五年のこと、同じ資本系列だった三井三池の労働争議が筆者の住む炭鉱町・三井山野にも伝播し、「合理化・首切り反対、安保反対」の喧騒は子供心にも刻まれている。にもかかわらず、同年十月から十一月にかけての山口二矢の社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺と山口少年の自決について当時の記憶が殆どないのはどうしたわけだろうか。
十七歳の少年・山口烈士の自決から五十年、自決当日の十一月二日に事件の現場「日比谷公会堂」で厳粛な五十年祭が営まれ筆者も参列した。追悼講演の講師・大原康男國學院大学教授は山口烈士と同年の高校三年生で、当時の記憶は鮮明だという。本誌編集長の四宮正貴氏は中学二年で、これまた事件の衝撃をありありと覚えているという。自分の「原体験」の無さを解明しようと試みたが、小学六年生と言う年回りと、家庭にテレビが無かったということに起因するのではないかと結論した。炭住で目にしたデモは記憶に鮮明である。視覚的、映像的に記憶に刷り込まれた出来事は、ことの本質把握は出来なくとも、長く記憶に留まるように思われる。

昭和三十五年当時自宅にはテレビは無く、待望のテレビが「我が家に来た」のは、東京オリンピックの前年の昭和三十八年、中学三年生の時だった。同じ年生れの妻は、北陸は能登の産で、小学生当時から自宅にテレビがあったという。棟割の炭鉱長屋でもテレビがないほうが少なくなってきた時期に漸くテレビがやってきた。後になって昭和四十五年の三島・楯の会事件を小学生の頃に記憶があるという後輩達に出会ってきたが、多くは市ヶ谷台のバルコニーで演説する三島由紀夫の映像を見た記憶が残像として残っているというものだった。
一クラス五十五〜六人、一学年十五クラスというマンモス中学に入ったのが昭和三十六年のことである。入学最初の試験の成績でクラス編成が行なわれ、成績上位者を均等にクラスに割り振っていくという学級編成だったと後で知った。八百五十人近い学年で五番の成績だったと教えられた。上位の大半は炭鉱職員の子弟、大学出のお偉いさん方の子供たちの中で、坑夫の子供は珍しいと話題になったという。

中学入学に限らず、高校入学も学年で二番の成績、いつも入るときはいいのに、何故か途中で脱落してしまうのである。その理由は明確、中学の時も高校の時も、入学早々上級生にこっぴどく苛められる、暴力的な制裁を受けた。中学校入学式当日から次々と上級生から呼び出され、制裁・リンチを受けた。ともかく、生意気だというのである。態度がでかい、威張っていると暫くの間は殴られ続けた。理不尽な因縁をつけられて殴られる、殴られてもふてぶてしい態度は改まらず、また殴られる。学校内が一巡すると、別の中学からまで出張って来て、「喧嘩しよう」とタイマンを挑まれ、大勢に取り囲まれ殴り合いをさせられた。そのうち殴られ強くなって、少しばかりの制裁では利かなくなってしまった。

殴られて悔しい思いをしたら、一人になって柱に座布団を巻きつけ、または木に筵を巻いて、只管殴る練習をしていた。手の皮が向けて血だらけになっても喧嘩の練習をした。年長者にもそんな狂気が伝わったのか、虐めに飽きたのか、次第に殴られなくなってきた。そんな過酷な通過儀礼を受けるのだから、勉強どころではない。「勉強しているのを見られるのは恥じ」と思うのだから、成績が落ちてくるのは当然のことである。中学の記憶は殆どない。二年、三年を担任してくれた英語教師の名前をどうしても思い出せない。それぐらい記憶が曖昧な中学時代である。

それでも中学二年生の頃、校庭の傍を走る蒸気機関車がディーゼル機関車に代り、列車が走ると一斉に教室の窓から子供達が顔を出したことが印象深い。新飯塚から漆生駅まで僅か四駅しかない「漆生線」は後に廃線になるまで国鉄の全国不採算路線のワースト上位に常にランクされていた。鴨生駅には石炭積み込み施設が常備されていた、その産炭地にディーゼルが走るのは、石炭から石油への「エネルギー革命」を端的に象徴した出来事だったであろう。

昭和三十八年八月に父が勤務していた三井山野鉱業所は閉山し、翌月三井時代の施設・財産をそのまま引き継いだ三井の第二会社「山野鉱業株式会社」が発足、新会社が操業を開始した。全員解雇と大幅な賃金カットでの新会社採用、同級生が一人去り、二人、三人‥‥、中学三年の二学期から三学期にかけて、クラスの三分の一がいなくなってしまった。親の転職先に従って行くしか子供には選択の余地はない。全員が一人十円を出し合って、ベトナム戦争の米軍落下飛行機の残骸から作ったという中国製万年筆「英雄」を餞別で贈った。この「英雄」はパーカーを真似たもので、一本五百円だったが、転校生が増えると不足分は担任が負担すると先生が愚痴っていた。

クラスに残った三十五人ほどの生徒の内、三分の一が就職の道を選んだ。飯塚駅から大阪に向う集団就職列車を見送りに行って涙ぐんだ。「俺がこの列車に乗っていても不思議ではない」。姉も高校に進んだ。高校までは何とか行けそうだ。当初は工業高校が就職率が高いと勧められたが、出来たばかりの高校と短大を兼ねた「国立工業専門学校(高専)」と普通高校を受験した。選んだ久留米高専は二十倍ほどの人気ぶりだったが、姉と同じ地元の県立普通高校の合格通知と同時に久留米の補欠入学の通知が来た。高専は下宿か寮に入らざるを得ず、家族で協議していたら、高校時代に姉を特別可愛がってくれた野見山光義先生が訪ねて来てくれて、高校は二番の成績で合格していたこと、頑張って勉強して大学に進むようにと両親を説得してくれた。後でも触れるが、この野見山先生は筆者にとって、掛替えのない恩人であり、恩師である。

高校受験を控えた冬のことだったか、姉に誘われて飯塚の公会堂で開かれた「生長の家講習会」に行った。勉強が良くできるようになる「講習会」というふれこみと、小遣いを呉れるという魅力に負けて同行した。姉は地元銀行への就職が決まっていた。姉が高校二年になる前、進学クラスか就職クラスか選択しなければならない。一年次のクラス編成は成績順で一番から五十番までは「一組」、姉は一組で、しかもかなり成績上位者だった。大学進学を選びたいという姉、下に弟二人がいて、出来れば弟たちを大学まで進ませたいという両親。姉の泣き声、母の声を落とした泣き声が、子供心に無性に悲しかった。姉は就職クラスを選び、銀行入社試験もトップクラスだった。

母が「生長の家」という宗教を信仰していることは何となく分っていた。時折、「誌友会」と称する近所での集まりに連れて行かれた。正座はきつかったが、面白い話も時にある。この世には眼に見えなくても実在するものがあること、例えばラジオの電波は眼に見えないが、受信機の周波数を合わせると音声が聞こえてくる。人間は無限の能力を有しているが、脳細胞の僅かしか使っていない、潜在能力は無限であるなど、子供心にも納得出来る。母の母、筆者にとっての祖母は東京から祖父に嫁いできて、苦労も多かったのだろう、幼い子供を残して四十歳前に亡くなっている。東京時代に触れたのか、谷口雅春氏が主宰する「生長の家」誌の読者で、母の親戚には「生長の家」を信仰する者が多い。

姉に連れて行かれた「講習会」の内容は覚えていないが、貰った小遣いで購入したのが『パール博士の日本無罪論』だった。後年、著者の田中正明先生とお会いした際に、その話しをしたら大変喜ばれた。中学生にしたら難しい本を選んだということは、講演内容も本に即したものだったのかもしれない。母の見よう見まねで、小さな仏壇の前で『甘露の法雨』というお経を上げる、ご先祖様への感謝は理屈としては分る。しかし、先祖両親への感謝の前に天皇陛下に感謝する、皇恩に感謝する、「天皇陛下有難うございます」という唱え言葉が次第に習い性になってくる。父は母の信仰には鷹揚だが、主義主張は社会党支持者で無神論に近い。それでも天皇陛下の批判・悪口は決して口にしなかった。そんな環境ゆえか、我が家の天皇崇拝は空気のようにごく自然だった。

高校入学前の春休みに一年ダブって(工業高校を辞めて)、同じ一年になるM君から誘われて、生長の家高校生練成会という「合宿」に参加した。ここで聞いた話は天皇陛下の終戦時のご決断、国民の為に一命を省みられなかったこと、若い特攻隊員が日本を護るために必死必殺の行為に出たこと、涙が出て止まらなかった。「天皇陛下は素晴しいご存在」という感覚が皮膚感覚に刷り込まれていたので、講演内容も砂に水が染み込むように何の抵抗も無く入ってくる。殊勝にも、お国のお役に立つ立派な高校生になろうと決意した。

在日の友人に学んだ喧嘩の流儀

然し、そんな決意も入学早々に受けた「通過儀礼」で粉々になる。入学式には首席のK君が新入生代表宣誓、次席の筆者が新入生代表挨拶をした。挨拶の内容が生意気だったのか、態度が横柄だったのか、翌日から制裁の雨嵐。剣道部、柔道部から始まり、殆どの体育部から部室に呼び出されて、殴られ蹴飛ばされた。両脇を抱えられ、顔と腹をサンドンバックのように殴られた。いつか必ず仕返しをするぞ、という思いが顔に出ているのか、一層殴られた。「生長の家」の教えでは一切の人に物に感謝せよ、という。多勢に無勢で理不尽に殴られて感謝など出来るわけがない。「いずれ必ず仕返しをする」という一念だけで、何とか制裁の嵐を切り抜けた。

中学の同期生で私立高校に通っていた在日韓国人のT君がタイマン(一対一の喧嘩)をする現場に立ち合ったことがある。相手の強さは圧倒的、一方的に殴られ続けた。抵抗の意志を放棄したT君に相手は余裕綽々、その一瞬の隙をついてT君が相手の顔面に頭突きを入れる。一気に形勢逆転、顔面血だらけの相手を徹底的に殴り蹴り続ける。このままでは死んでしまうのではないかと、留めに入った筆者まで殴られた。後でT君曰く、「喧嘩するときには絶対に油断するな、相手に油断させろ。やるときには、相手が仕返ししようと思わないほど、徹底的に痛めつけろ」と。中途半端に殴ったら、必ず相手は仕返ししてくる、歯向かう気持ちさえ持たせないほど、徹底的にやつけろ、それが彼の喧嘩ポリシーだった。彼らの民族性を見る思いだったし、彼の喧嘩の流儀から多くのものを学んだ。

「川筋モン」といえば、筑豊の極道をイメージしがちだが、必ずしもヤクザ気質だけではなく、炭鉱と遠賀川の流域に育った独特の男気質、「花と龍」をこよなく愛する漢の心意気である。炭鉱の中に職員と鉱員の身分差別があり、炭鉱の規模の大小によって職場環境が全く違う。その日からでも飯が食える炭鉱は、全国から流れ者が集まり、戦前は朝鮮半島から職を求めて多くの朝鮮人も流れ住みついてきた。小学校の時、クラスの約一割が朝鮮・韓国人だったと書いたが、決してオーバーではない。加えて部落という特殊な存在があることも子供心に刻まれている。H君の家は炭鉱住宅の高台を下った山間に点在する一軒だったが、小学生の時に訪ねた折には、電気が通わずランプが天井からぶら下がっていた。ある町会議員候補が、部落のふもとで「インデアン部落の皆さん」と呼びかけたという話が実しやかに噂された。子供達も何の悪気も無く、「インデアン部落」と呼んでいた。職員、鉱員、朝鮮・韓国、部落が混在し、雑多な中に矛盾と強烈なエネルギーが渦巻いていた。

女子中学が前身の我が母校・県立稲築高校は女生徒の方が多い、普通高校ではあるが決して進学校とはいえない。隣の飯塚市にある嘉穂高校は筑豊一の進学校旧制中学当時から文武両道の名門校である。東京大学に進むものもいれば、九州大学の合格者も県下で十指に入るぐらいだった。勉強も余りできず、女生徒の方が多いから、私立高校の不良たちの格好の餌食となるのが我が校である。ある時、全く見知らぬ不良高校生の一団が学校に来て、一枚百円だったか二百円だかのダンスパーティー券を何十枚か押し付けられた。飯塚市内の公会堂を借りて、レコードを流しダンスに興じる「パー券」の押し売り、呈のいい恐喝である。自称「悪」を気取っている者で泣く泣く金を集めてノルマを果たした。するとまた別の一団がやってくる。

筆者など碌に小遣いも貰わぬ身で、そうそう券が捌けるはずはない。意を決して断ることにした。いい度胸だと公園に呼び出しがかかる。五人選んでタイマンを張ることになった。筑豊地区の不良で名をとどろかす者など一人としていない我が母校・稲築高校、相手も油断したのだろうが、なかなか善戦した。筆者もぼこぼこにされながら最後まで根を上げなかった。それ以来、ぱったりと押し売り、恐喝は来なくなった。寧ろ、下級生がバスセンターで時計を捕られたと聞いて、悪友と取り返してきたりもした。そんな男気が取り柄か、推されて生徒会長に立候補し、高校二年生では生徒会長を務めることになった。少し与太った生徒が「風紀委員」をしたり、生徒会の役員をするのが当時の流行だった。
父も坑内にいた史上二番目のガス爆発事故

忘れもしない、生徒会長を務めていた昭和四十年六月一日、前年の東京オリンピックが映画化され、炭鉱の映画館で『東京オリンピック』の映画を全校生で観た。映画を見終わった正午過ぎ、ズドンという地面が振動する地響きが伝わってきた。暫くして町内放送でカナリアを飼っている家は、構内入り口まで持ってきて欲しいという放送が繰り返された。ガス爆発事故が起こったのだ。死者二三七名、一酸化炭素中毒者二十七名、当時入坑者は五二二名。死者の内訳は職員十九名、直轄鉱員一〇四名、下請け一一四名、入坑者の45、4%、凡そ二人に一人が死ぬという大惨事が起こった。勿論、父も一番方で朝から仕事に出かけていた。その頃父は、嫌っていた鉱内(坑内)での仕事に変わっていた。子供の教育のために、少しでも給料のいい坑内の仕事を選んだのだろう。二年前に起きた三井三池三川鉱(大牟田市)のガス爆発事故は死者四五八名、一酸化炭素中毒者八三九名という日本史上最大規模の事故であった。

六月四日には全遺体の収容が終わり、五日には全遺族に一律五十万円の遺弔金が決まったと記録にある。中には十六歳の死亡鉱夫(下請け)がいたことで、労働基準法違反と報道され、涙を誘った。事故当日、鉱業所入り口には安否を案じる家族や報道関係者でごった返していた。夜遅く、真っ黒になった父の姿を見つけ、生きていると母や姉に伝えろといっただけで、仲間の救出に戻っていった。父が生きている、それだけで無償に嬉しかった。全遺体の収容が終わっって帰宅した父は疲れ果てていた。どれだけの戸数があるのか分らぬほど整然と立ち並ぶ社宅、炭住は線香の匂いで咽びかえっていた。前の長屋も後ろの長屋も葬式、高校在校生の二十数人が父や兄をこの事故で亡くした。生徒会長の職責もあり、全ての家庭を訪ね弔問をさせてもらった。

エネルギー革命に抗しきれず、採算割れするからと三井は炭鉱を閉めた。それが、子会社になると出炭率が三〜四倍という高能率、そこに安全管理の手抜きというガス爆発の遠因があった事は間違いない。現に事故の一ヶ月前に通産省鉱山保安監督局が立ち入り検査を実施し、ガス対策を徹底するように指摘している。後に朝日新聞がスクープした記事によると、三池ガス爆発で一酸化炭素中毒者の補償に苦しむ経営側が、故意に救出を遅らせた結果、三池と山野では一酸化炭素中毒者の数が極端に違うという。新聞記事になる前から、そんな噂が高校生の我々の間でも囁かれていた。

二年、三年の社会科・倫理を担当してくれたK先生の授業は面白かった。受験に直接関係無かったから、身を乗り出して熱心に聴いた。このK先生は、東大から九大に転校してきたという異色の経歴で、組合活動に熱心だったが、生徒指導にも熱かった。そのK先生から県内の弁論大会があるから出てみないかとの誘いを受けた。弁論部はないので、即席の弁論部が誕生した。先生と合作で作り上げた論旨は、ガス爆発事故を経験して、資本の人命軽視を糾弾するという極めて政治的な内容だった。K先生は三井三池の労働組合運動を理論的に指導した向坂逸郎・九州大学教授に憧れて東大から移ってきたことは後で知った。向坂は安保闘争の前哨戦、「総資本対総労働の対決」とも言うべき三井三池労働争議を指導し、社会主義革命の拠点,実験場としていた。K先生から聞く『資本論』の内容や、「社会主義革命」論は受験勉強とは一味違った学問への意欲をかきたてた。俄か仕立ての弁論は、それでも入賞は逸したが、「特別賞」受賞といった審査員の好評を博した。後日、このK先生が「犬塚が右翼になったことだけは格別に悔やまれる」と語っていたと伝わり、何となく申し訳ないような気にもなったことがある。

さて、こんなことを記せば、少し増せた硬派かと誤解を招くが、高校の大半は「時折真面目、後の殆どは不良でサボリ」といったところである。この十数年、年に何度か帰省することが多いが、その度に同期生(進学クラスの同級生ではない)が集まってくれる。異口同音に「犬ちゃんは悪かった」との声が上がる。少しは成績のいい時期もあったことはすっかり忘れられている。自慢になる話ではないが、高校二年の後半に「喫煙」で一週間の停学、三年の二学期開けに飲酒・喫煙その他で無期停学処分を受けた。無期停学は二ヶ月で解除されたが、二度にわたる「停学処分」我が校では初めてのことだという。二度目は自主退学となり、私立校に移ることが規定路線だった。二度目の処分を巡って職員会は侃々諤々の大論議だったそうだが、担任の野見山光良先生は針の上の筵で只管沈黙、予想外の何人かの先生が「退学は勿体ない、もう一度だけチャンスをやろう」と擁護してくれ首の皮一枚で助かった。
もし高校中退で社会に飛び出ていれば、どんな人生を送っていたことだろう。チャンスを与えて頂いた先生方に感謝しても、し尽せないものがある。

一体何が面白くなくて、親や教師に背を向けて悪ぶっていたのだろうか。社会矛盾、理不尽、ともかくいつも苛立っていた。燃焼しきれない何かが、何時も心の底に燻っていた。一年生では新入生代表挨拶、二年次では生徒会長として卒業生に在校生代表の送辞を読み、卒業式では会長経験者が「答辞」を読むのが慣例だったが、流石に「答辞」を読む晴れ舞台からは下ろされ、副会長の女生徒に変わった。そんな高校時代だったから、大学受験は悉く失敗した。甘く考えていたのか、それでも何とか一校ぐらいは受かるのではないかという期待は無残に打ち破られた。当然の結果なのだが、それでも納得いかない。父がどうするか尋ねるので、一年浪人したい、死に物狂いで勉強すると約束して許しを得た。九州大学に最も合格者を多く出すという県下最大の予備校に決めた。当初一ヶ月は列車通学で福岡市まで通ったが、片道二時間半の通学距離はきつく、それより悪友との交友が切れずに勉強に身が入らない。さらに無理を言って、福岡市内に下宿させてもらった。

出来れば九大を目指したいが、文系志望者にも社会・理科がそれぞれ二科目必須、それも「選択」ではなく十月頃に「指定科目」が決まるというハードルの高さがある。典型的な文系受験タイプ、というより理数が大の苦手である。授業時間を含めて一日十五時間の勉強をノルマと課した。ともかく国立文系受験、成績が飛躍的に伸びれば九大に、そこまで行かなければ長崎大の経済を目標に受験勉強に集中した。
朝食前に二時間、数学と英単語の勉強、授業は常に最前列で受講。下宿以外では誰とも口を聞かない、変人に徹した。知り合いと言葉を交わせば何らかのトラブルに巻き込まれる。睡眠は四時間。笑い話だが、タバコは記憶力を低下させると一日三本に決め、これを厳守した。結果は一朝一夕には出ない。半年ほど頑なな受験勉強スタイルを続けていたら、秋口から成績が眼に見えて向上してきた。後一押しだ。

「哲爾」を本名「博英」に復した事情

前回から説明もせずに筆名を「犬塚哲爾」から「犬塚博英」に変更した。通称「哲爾」を用いてから十二年になる。それなりに愛着のある名前でもある。大塚和平さんという、実に人情味溢れる下町気質の好人物がおられる。渋谷NHK前にある「二・二六事件慰霊観音像」前で、殉難者供養を長く続けてこられた。イラクや北朝鮮など危険地帯を訪ねるボランティア活動にも熱心だった。大塚氏は霊感に富み独自の姓名判断の大家で、芸能人の名付け親になり大成した人も多い。このままでは五十歳前で生命を落とすと、執拗に改名を勧められた。恩師の中村武彦先生まで説得し、個人的にも思うところあって、ベストの字画を選び「哲爾」に変えた。還暦を過ぎた頃から本名に戻したいと思っていたが、名付け親の大塚氏が体調を崩し了解を得ることができない。二年間本復を待ったが御礼も申し上げずに、六十二歳の誕生日を以って本名の「博英」に復した次第である。大塚氏や亡き中村先生の後進を思う愛情に満腔の謝意を捧げ、残された時間を「犬塚博英」として生き、師と先輩のご恩に報いたいと願う。
【策敵迷走】「尖閣紛争」に思う

「超法規的措置」の判断を迫られる「尖閣」の現場

十数年前になるか「政府専用機を見てみませんか」との誘いを受けて、千歳に飛んだことがある。中曽根内閣当時に導入した政府専用機(当時の予算二機で三百六十億円)、天皇陛下や皇族が搭乗される場合は、「御召機」「御料機」と呼ばれ、天皇陛下の外国行幸と総理大臣の外遊が重なった場合は、事実上の元首である天皇の「御召機」が優先使用される原則などは知っていた。この専用機は千歳基地に「特別航空輸送隊」が編成され、航空自衛隊が運用している。千歳基地のパイロットの話を聞く機会があったが、ソ連崩壊までは年に二百回近くのスクランブルがあったそうで、二機編成で飛び立ち、一機が攻撃を受けた場合に、もう一機が漸く攻撃ができることや、敵機のパイロットの顔を目視することもあるという実情を伺った。最も緊迫した情況に直面してきたのが、航空自衛隊の戦闘機パイロットたちであった。戦後長く続いた「平和」の中で、「敵の姿を目視」する現場はそう多くはなかった。

今から三十年以上前(一九七八年七月)、当時の栗栖博臣統幕議長が週刊誌紙上で「現行の自衛隊法には穴があり、奇襲攻撃を受けた場合、首相の防衛出動命令が出るまで動けない。第一線部隊指揮官が超法規的行動に出ることはありえる」と有事法制の早期整備を促す「超法規的発言」を行い、記者会見でも信念を譲らず、時の防衛庁長官・金丸信に解任されたことがあった。それから四半世紀して有事立法の第一段階、基本法である「武力攻撃事態対処法」が成立した。
「最前線」は今や尖閣諸島周辺を含めた東アジアに展開している日中冷戦の現場に移動、海上保安官や自衛官は、スクランブルに対応してきたパイロットと同じ様な緊迫した情況に向き合うことになる。その現場では、実に「超法規的措置」の判断が求められることになる。

中西輝政京都大学教授は「対中冷戦最前線、『その時』に備えはあるか」(『正論』十二月号)で、「尖閣は中国の領土という主張を国際社会にアピールすることに成功した。次々と揺さぶりをかけて更なる強硬姿勢を繰り出してくる」と見通す。中国側が〈漁民〉を尖兵に尖閣への上陸を企て、海保の巡視船と中国の漁船監視船や海洋調査船が対峙、中国軍艦が後方に姿を現す。海上自衛隊の護衛艦も当然出動する。しかし、今回の「尖閣事件」の対応で明らかになったように、菅内閣やそれに替わった民主党内閣であったとしても、如何なる状況下でも「防衛出動命令」を出せないだろう。菅・民主党内閣のみならず歴代の自民党政権下でも、「如何なる情況になっても軍事力の出動はしない」ことが基本認識になっていた。海保職員の生命が危険に晒され、日本の領海、領土が侵犯されてもこれを黙認するのか。今は亡き栗栖統幕議長が問題提起した「超法規的措置」を選択する決意なくして、日本の防衛が成り立たない局面を、これから繰り返し経験せざるを得なくなってくる。

戦後日本は「軽武装経済重視」を国策とし、日米安保を現実的な選択としてきたが、ここに来て明治維新前夜と同じ様な「海防論」が沸騰する情況に直面し、日米安保が機能するかどうかを不安視するようになってきた。それでも政府首脳は危機の本質を直視することなく、紛争前の日中関係にリセットする、「戦略的互恵関係」を維持するという。ことは中国漁船の領海侵犯、海保巡視船体当たり事件などという生易しいものではなく、「尖閣事件」「尖閣紛争」の序章なのだ。すでに中国は国内法で尖閣諸島を中国領土に編入し、最近では尖閣を含む東シナ海を中国の「核心的利益」に位置付けたと公表している。中国の強大な外洋艦隊が完成する二十〜三十年後には、日本周辺で日本が自由に行動できなくなる可能性は高い。

「憲法改正・国軍への再編成」以外に生きる術なし

こうした事態に対し本来なら憲法を改正し、自衛隊を国軍に編成し直し、自前で戦える防衛力を整備すべきである。福祉などを含む個人の生活防衛でも、自助共助公助が順である。尖閣有事に日米安保が機能するか、米国有力者の発言に一喜一憂するより前に、まず「そこにある危機」に自前で対処する覚悟と備えをするのが本質あろう。追い詰められたダチョウは「砂地に頭を突っ込んで、周りの情況から目を逸らす」(オストリッジ・シンドローム)に陥るという。日米安保のお陰で防衛費はGDPの一%程度で、主要国平均の半分ですんでいると、「基盤的防衛力構想」は自らの自衛力は専守防衛に徹し、攻撃力は米軍に依存する体制を改めようとしない。「普通の国になるということは、いまの倍以上の防衛費を要する」と、経済的利得だけを説いて、未だに安保信仰を改めようとしない。

田母神俊雄元空爆長は独自に独立国・日本の軍隊創設費用を試算している(『田母神国軍』)。「憲法九条の二項で『自衛隊を国軍と位置付ける』だけで、日本は独立国としての道を歩み始めることができる」。原子力空母、原子力潜水艦、戦略爆撃機、艦対地ミサイルという国軍に必要な新たな攻撃力を取得するのに一五兆二一一二億円、二十年かけて国軍を創設する決意さえすれば、二万人の自衛官の増員人件費を含めて、年当り一兆五千億円程度ですむ。現在の防衛費を一・三倍する程度で、初年度導入の子供手当ての三分の二にしか過ぎないという。防衛省の予算編成上の積算方法を採用。聖徳太子の昔から我が国の対外関係はシナ大陸と如何に向き合うかが全てであったといっても過言でない。尊皇攘夷、明治維新、大東亜戦争への道も全てがシナ大陸との関係に起因している。日本国民は、「オストリッチ・シンドローム」という迷妄から目を覚まし、「今そこにある危機」と真正面から向き合わなくてはならない時に直面してきた。(22/11/22記す)



平成23年3月1日








 
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