1942年「バターン死の行進」 記録写真、実は事件後





1942年4月にフィリピンで日本軍の捕虜となった米兵が約100キロを行進させられ、多数が死亡した
「バターン死の行進」を写したとされてきた記録写真について、行進後に撮られたものだったことが判明したとして
65年ぶりに写真説明を訂正し、検証記事を配信した。
APは「記録写真の訂正はまれなケース」としている。写真は捕虜が遺体を運んでいる場面を写したもので、
米軍が45年に日本軍から入手し発表。APの配信で「死の行進」の証拠写真として歴史的に有名な一枚となった。






APは今回「死の行進」で生き残った元米兵の証言から約6カ月間に及ぶ調査を実施。
その結果、電説を「42年5月、死の行進で死亡した同僚の遺体を運ぶ米兵捕虜」と訂正した。
検証記事によると、昨年8月、元米兵のジョン・ラブさん(87)=ニューメキシコ州=が地元紙で
写真を見て間違いを指摘。
APは写真の原板を保管している米国立公文書館に照会したところ、
「行進ではなく、収容所の葬儀の写真」と書かれたメモが見つかった。
さらにラブさんの証言を裏付けるほかの元米兵らの証言も確認され、訂正に踏み切った。

【バターン死の行進】
第2次大戦中の1942年4月、フィリピン・ルソン島バターン半島で、日本軍に降伏した
米軍捕虜やフィリピン人住民らが、100キロ余り離れた収容所に連行される過程で、
日本軍に虐待されるなどして約2万人が死亡したとされる事件。
戦後、マニラ軍事法廷で当時の司令官、本間雅晴中将が事件の責任者として有罪を宣告され、銃殺刑になった。


 @こうした報道写真のいかがわしさは、近年になって南京虐殺、従軍慰安婦、強制連行などでも証明されているが、
こうして戦勝国側の一方的な解釈によって世界中に配信された事は実に許しがたい。
しかし一番の問題はこれを日本の朝日新聞を始めとする反日メディアが最大限に利用し、
自虐史観を国民に植え付けてきた事であり、それらに対しなんら反論も検証もせず黙殺してきた戦後ポツダム政府にある。



平成22年3月23日












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