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わびすけさんより連続投稿頂きました。


八月十五日 敗戦記念日の実証


御存知、八月十五日は、昭和二十年、第二次世界大戦、「大東亜戦争」の「終戦記念日」であります。
「終戦の詔勅」という、天皇陛下の「大御心(おおみごころ)」を拝し奉り、そのご無念、その悔しさ、その傷ましさを、お察し申し上げ、
私たち日本人は、あえて「終戦」という言葉をもって、時代に区切りをつけてまいりました。

がしかし、その実は、なんとも傷ましい「敗戦」でありました。
世界約五十ヶ国以上を相手に、満州、中国、中央、北方、東南アジア、北はアリューシャンから南太平洋、オーストラリア・シドニーに至る、広大な、
アジア太平洋全域を舞台にした、戦いであったのです。

矢玉尽き果て、極寒凍る地の果てで、
あるいは、人を寄せ付けぬ、灼熱地獄の、飢えと疫病のはびこる、ジャングル地帯で、
あるいは、大海原の海底深く
あるいは、空襲、原爆、じゅうたん爆撃によって、
多くの日本人の命が呑み込まれた、まさに「敗戦」でありました。

営々と築き上げた、二千余年の日本史に、はじめて外国の占領支配を許すに至った、悲痛の「敗戦の日」なのであります。

その数、
陸軍、一、一四〇、四二九名、
海軍、  四一四、八七九名、
民間人、 九九七、七一七名、
公式な数だけでも、総計、二、五五三、〇二五名でありました。
その他、不明者の数を入れると、三百万をはるかに越える戦死者が出ております。
尚、終戦の八月十五日から、九月二日の、「降伏文書調印」に至るまで、確認のとれた者だけでも、軍人・五六八名が、その責を負い自決し、
又、戦勝国側の一方的な裁判により、約一千名の日本人が、戦犯として亡くなっております。

ここに謹んで鎮魂の祈りを捧げたいと存じます。

さて、ではなぜ我国はこのような、過酷にして、甚大な、戦(いくさ)を戦い抜かねば、ならなかったのでしょうか。

アメリカを中心とする、戦勝国側の見解によれば、この戦争は「十五年戦争」だという定説をもっております。
いわゆる、昭和六年九月の満州事変から、その後の日中戦争へた、一連の日本の侵略の末路が、我が連合軍の鉄槌によって終わったのが、
この戦いであったのだと。
そしてこの、「日本イコール侵略国家」の定説は、戦後の日本人にも広く浸透され、洗脳され、押し付けられ、
今ではまったく疑うことのない「日本の常識」となっております。
日本が世界を侵略した、酷いことをした、日本の軍国主義が、多くの人々を不幸にした、反省しなくてはならない、
謝らなくてはならない等々・・・・・

果たしてそうなのでしょうか、それがすべてなのでしょうか。
歴史の産物として、今も残る、あらゆる文化、芸術、信仰、生活慣習などをみても、およそ他国にはない、
日本は寛容で謙虚で、おおらかで、奥ゆかしさを持った国であるということは、皆さんも心の底では、感じておられると思います。
そんな日本が、戦勝国のいうように、非道で残酷な、侵略戦争をしたというのでしょうか。簡単に、そう決め付けてしまってよいのでしょうか。
二千六百有余年前、「和をもって尊しとなす」という、「第一代・神武天皇様」の、「建国宣言」の理想にもありますように、
基本的には、日本は「和の国」なのであります。大きな和の国、「大和の国」なのであります。

明治天皇様のお歌の中に、

四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思う世になど波風のたちさわぐらむ

という、お歌があります。
これは日露戦争を前にして、詠まれたお歌です。
つまり、「私は、世界はみんな家族のように想い、仲良くしたいと思っている。けれど、世界の情勢は、いかんともしがたく、それを許さない。悲しいことだ」
という意味のお歌です。
そしてこのお歌は、昭和天皇様が、「大東亜戦争開戦」を御決意されるにあたり、そのお気持ちとして、政府首脳陣の前で、引用されておられます。


この、「いかんともしがたい、世界の情勢」というものが、果たしてなんであったのかということを、
幾多の戦禍に斃れた、日本人祖先の名誉のためにも、我々は今、たしかな目で検証していかなくては、ならないのであります。

そこで、先程申しましたように、戦勝国側の「十五年戦争」という見解に対し、私はこう主張致します。
「大東亜戦争」という観点からみれば、この戦争は「四百五十年戦争」であり、
「日米戦争」という観点からみれば、この戦争は「百年戦争」であったと・・・・・・・


まず一つ目の、「大東亜戦争」とは、当時日本が、その戦争目的をもって名づけたものであります。
つまり、日本が開戦に踏み切るにおいては、「西洋白人列強国によって、封鎖された経済・資源の活路を求め、アジアに進出するのはもちろんであるが、
そのアジア地域に、征服、侵略によって、数百年来居座る、白人諸国を追い出し、アジアを独立に導くことでもある」という目的を持っていたのであります。

昭和一六年、日本が戦争に突入するときの世界地図を、皆さんはご覧になったことがありますか。
日本を除く、有色人種国の中で、実質的に、純粋に、独立国と呼べる国は、一国もありませんでした。
みな白人諸国に、征服・蹂躙されていたのであります。

その侵略史、四百五十年の足跡を見てみると、アメリカ大陸では、イギリス、フランス、ロシアなどによって、インディアンとメキシコ人が片隅に追いやられ、
結果イギリス系のアメリカ合衆国が生まれておりました。
南米では、ブラジルをはじめとした国々が、スペイン、ポルトガルの植民地となり、オーストラリアは、イギリスが先住民のアボリジニ族を追い出し、侵略統治しました。
いずれもその空いた土地の開拓には、黒人奴隷として、アフリカ人が酷使されたのであります。

一方アジアにおいても、インドはイギリスに、アラブはイギリス、フランスに、中国は、アヘン戦争の敗北以後、
アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインといった国々が居座る中、共産党やら、馬賊やらが暴れ回っていて、もう国ではなかったのです。
又中央・北方アジアでは、ロシアが支配権をもち、東南アジアにおいては、インドネシアがオランダに、ビルマ、マレーシア、シンガポールはイギリスに、
フィピンはアメリカに、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスにと、それぞれ、白人諸国に侵略統治されていたのであります。
ちなみに、世界一たくさんの宝物が展示されている、イギリスの「大英博物館」、フランスの「ルーブル博物館」、あそこになぜ、
あんなにたくさんのアジア、アフリカの宝物があるのか、御存知でありましょうか。
あの博物館の展示物は、彼ら白人が長年の侵略によって強奪した、「盗品の山」なのであります。

さてこの、西洋白人による侵略、征服の全ての「根」、すなわち諸悪の根源、スタートラインこそが、四百五十年前にあったのであります。
この当時、世界で一番強い国は、西ヨーロッパ、イベリア半島の「スペイン」と「ポルトガル」でした。
両国は考えたのです。強国の隣国同士がぶつかり合って力を弱めるより、お互い中立協定を決めて、世界征服をしていこうではないかと。
それが一四九四年の、「トルデシリャス条約」というものでした。
この条約には、「立役者」がいたのです。
その立役者こそ、キリスト教・カトリックのボス、「ローマ法王」だったのであります。

ローマ法王は両国の王を前にして、「デマルカシオンの規定」というものを打ち出しました。つまり、「領域区分」ということです。
この領域区分によって、東の国はポルトガルに、西の国はスペインに、それぞれ与えるから、交易と征服を、
キリスト教の名の下に進めて行きなさい、という神の名を借りた「侵略許可証」でありました。
この許可証をもって両国は、晴ればれと、世界侵略に乗り出していったのであります。


やり方はこうです。まず先陣として、貿易商人とキリスト教の宣教師を送り込み、相手を安心させる。そしてその後に、
一気に軍隊が入り征服する、というものです。
ただここで、誤解しないで頂きたい事は、今申し上げた「キリスト教」とは、あの古(いにしえ)の聖人「イエス・キリスト」のことを批難しているわけではありません。
あくまでもそれを野望の道具として「かついだ」、白人の身勝手な道徳観を称して言っているのでありす。
右の頬を打たれたら左の頬を出せ、耐えろ、報復を考えるな、武器を持つな、それが神の意思である、と人には押し付けておきながら、
自らは、右の頬を打たれたら、それを理由に正義をつくり、左の頬どころか、相手の頭をフッとばすことも平気でやる。
でも彼ら白人は、それを矛盾とは思っていません。なぜなら、彼らは対する相手が非白人の場合は、別の目をもっているからであります。
彼ら白人にとって、非白人とは、家畜と同じだからです。家畜と人間は違う、だからなにをやっても、矛盾にはならないのであります。

ちなみにこの当時、交易における、先陣の役目を担ったのが、史上有名な「コロンブス」「マゼラン」「バスコダ・ガマ」という、
両国に雇われたチンピラ商人でした。
彼らは今でこそ、偉大な冒険家と呼ばれていますが、そんなものはとんでもない話です。
はっきり言って彼らこそは、「侵略のポン引き」以外の何者でもありません。

コロンブスはアメリカ大陸に着いたとき、こんな手紙を本国スペインに送っております。
「インディアンたちは皆裸で歩いており、武器を扱う技術を有しておりません。彼らは極めて臆病でありまして、千人かかっても、
こちらの三人を防ぐ事はできないだろうと思われます。
したがいまして、彼らには命令を与えて働かせ、種を撒かせたり、その他必要なあらゆることをさせればよい者達であります。
そして彼らには村落を作らせ、衣服を付けて歩くことや、教会を建て、神に祈る我々の習慣を教えてやればよいのです」
この傲慢さの中に、彼ら白人の独善的な力の野望の全てが、語られていると言ってもいいでしょう。

これら白人による侵略の爪あとは、今もくっきりと全世界に残っております。

コロンブスが盗みに入ったアメリカ大陸には、かつてインディアンやメキシコ人が暮らしておりました。
その人々を彼ら白人は、南北に分けて隅に追いやったのです。
地図を見ればはっきりと分かります。真ん中にアメリカがデンと構え、南の端に、まるで金魚のフンのようにメキシコがあり、
そしてインディアンには国すら与えず、北米インディアンという名前を勝手に付けられ、北の荒地の核実験用の無毛地帯に、隔離されております。

又一方、欧米各地には、現在も尚、アフリカを先祖にもつ「黒人」が多数暮らしております。
彼ら白人達は、その征服した土地の開拓にあたり、馬や牛と同様に、アフリカの黒人を、その労働力の道具に利用したのです。
我先にと、競ってアフリカ大陸に大挙した白人達は、魚のように網で黒人を捕らえ、荷物のように重ねて船に積み込み、野菜のように市場に出し、
白人各国に奴隷として売買したのであります。
当時の黒人の平均寿命が、「二五才」だったということを考えても、その虐待ぶりが、想像つくというものです。

一方インドでは、それまで世界一を誇っていた繊維産業が、イギリスの武力に潰され、その空いた畑で無理矢理「麻薬」を作らされました。
そしてその麻薬を、今度は中国に強引に売りつけました。やがて中国が、「もうやめてほしい」、と言ったのを理由に、
イギリス、フランスの連合軍が、アヘン戦争をふっかけ、勝利しました。
そして以後は、十ヶ国に及ぶ白人達が、ハイエナのように中国大陸に入り込んで行ったのです。

しかしこれらの事は、ほんの一部でありまして、中世から近代に至り、全世界余すところなく、白人による有色人種への、
征服と強奪の悪行は続けられたのであります。
そして、ほとんど例外なく、これらのことは、自由と正義とキリスト教の名の下に、行われたことでありました。

ちなみに、その魔の手は、当時の日本にもやってきました。
最初に伝えた宣教師は、ポルトガルの「フランシスコザビエル」といいます。皆さんも耳にされた事があると思います。
当時の日本の権力者は、「織田信長」でした。信長は非常に短気で、危険人物として、ポルトガル人も警戒していたため、
なかなか牙を見せませんでした。


やがて「豊臣秀吉」の時代になって、彼らは徐々に牙をむき出してきたのです。長崎に拠点を置いて、キリスト教の信者を増やしていき、
近く本国から軍隊を呼び寄せようとしていたのです。
しかし、この野望はいち早く秀吉に見抜かれ、「キリシタン禁止令」が日本に発布され、彼らの思いのままにはならなかったのであります。
それともう一つ、この当時日本が侵略されなかった理由は、ポルトガルのライバルであったスペインが、日本を狙っていたということがありました。
世界を東西に分けた彼らの「征服領域」の中で、日本は微妙な位置に在ったからです。
両大国が戦ってまで、奪う価値は日本にはないと、彼らはみたのでしょう。
ともかく日本はこの後も、彼ら西洋人の侵略の野望を警戒し、明治の世に至るまで、キリスト教を禁止したのでありました。

やがて、西洋人の侵略の事業は、十八世に入り、イギリス、フランスに、その主導権が引き継がれました。
いわゆる「産業革命」という、機械文明の発達によって、資源、市場、土地、労働力確保のために、益々拍車がかかり、
日本でいう江戸時代末期には、アジア、アフリカなど、そのほとんどが、彼ら白人の植民地と化していたのであります。

かくして、このような歴史の大海原の中に、東洋の小国日本の姿があったのです。
日本は、その恐怖の中で、もがき、苦しみました。
しかし、座して死を待つよりも、戦い抜くことを決意したのであります。

その代表的な戦いである、明治三七年の「日露戦争」の勝利は、全世界を驚きの渦と化しました。
ロシアの敗北、日本の勝利は、それまで白人に痛め続けられてきた、全世界の有色人種にとって、どれほどの希望の光を与えたことでしょう。
まさにこれを機に、全世界の有色人種の中に、独立の気運が高まったといっても、過言ではありません。

そして以後、日本は数々の戦いをへて、運命の昭和をむかえます。
しかしすでに、この地球という巨大なる「人種差別の惑星」の、その果てしなく澱んだ時代の流れは、誰にも止められぬ、大河となっておりました。
大東亜戦争への決意は、このような情勢下において、なされたのであります。
結果は、巨大なる物量の前に、惨憺たる敗北でした。
しかし、その死に物狂いの戦いの意義は大きく、日本の敗戦後、たくさんの独立国が、アジア、アフリカ諸国に誕生したことは、
紛れもなく世界の真実であります。
その数、百とも言われております。
皆さんは、かつての日本の戦いに感謝する、多くの世界の人々の声があるのを、御存知でしょうか。

タイの元首相、ククリット・プラモードは、その論文「十二月八日」の中でこう語っています。
「日本のおかげで、アジア諸国民はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすく育っている。
今日、アジア諸国民が、米英と対等に話が出来るのはいったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした、
日本というお母さんがいたからである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。
我々はこの日を忘れてはならない。」

ビルマの元首相のバー・モウは、著書・「ビルマの夜明け」の中でこう語っております。
「歴史的に見て、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに、貢献した国はない。
しかしまた、日本ほど、そのアジア諸国民から誤解を受けている国もないと」

フィリピンの独立の父といわれる、アルテミオ・リカルテが、戦争前に自ら発行した機関紙にこう語っております。
「この戦争は、必ずや祖国に独立をもたらすに違いない。日本が勝てば、アジアの有色民族は、欧米白色帝国主義に抵抗して、
独立解放の気運を高めるであろう。日本に勝って欲しい。日本よ勝て!」

同じくリカルテが、昭和二十年、日本の敗戦と共に死を決し、その間際に語った言葉は
「私はフィピン人です。アメリカに降伏していない唯一の将軍です。私は祖国にとどまって最後の一人になるまで、アメリカと戦う覚悟です。
しかし、私の墓は、私の第二の故郷である日本に建てて欲しい。」
そのとおり、リカルテの遺骨は、今なお横浜の小平霊園に葬られております。

インドネシアのスカルノ元大統領は、三五〇年にわたる、オランダからの独立宣言書の日付を、こう記しています。
「〇五年八月十七日」と
つまり、〇五年とは、日本の天皇紀元である二六〇五年の略号であったのです。


又、同じくインドネシアの、情報大臣であったブン・トモは、昭和三二年に来日し、当時の首相岸信介にこう語っております。
「日本は明治以来七〇年間に蓄えた財産と、教育した人材の全てをなげうって、大東亜戦争を敢行した。
この戦争は我々の独立戦争だから、我々が主力で、日本は補助勢力であって、しかるべきだった。けれども日本は、俺がやるといって頑張ってくれた。」
同じくブン・トモは、その後再び来日し、佐藤首相にもこう語っております。
「我々アジア、アフリカの有色民族は、白人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。
それなのに日本は、わずか数年をもって我々の面前で、白人侵略者を打ちのめしてくれた。我々はその白人の弱体ぶりと醜態ぶりをみて、
アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと思ったのです。」

昭和三六年に日本を訪れた、マレーシアの元首相ガザリー・シャフェーは、その演説の中でこう語りました。
「日本はかつてアジアに対し、強い責任感をもって、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。
この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーのくもりばかり見ているようなものです。」

インドの法学博士グラバイ・デサイは、敗戦間もない日本の将来について、こう語っております。
「このたびの日本の敗戦は、誠に痛ましく、心から同情申し上げます。しかし、いったんの勝敗のごときは、必ずしも失望落胆するに当たりません。
殊に優秀な貴国民においてであります。私は日本が、十年以内に、アジアの大国として、再び復興繁栄することを確信いたします。
我国インドは、程なく独立します。その独立の契機を与えてくれたのは、日本です。日本が欧米諸国と戦ってくれたおかげです。
インドの独立は、日本のおかげで、三十年早まりました。これはインドだけではありません。
インドネシア、ベトナムをはじめ、東南アジア諸民族すべて共通の気持ちなのです。」

これらの声は、ほんの一部でありまして、まだまだたくさん、日本の今の世論にはない、日本を理解し、感謝する外国人の声が、あるのであります。

それでも尚、日本が侵略戦争をしたというのなら、ぜひ教えてもらいたい、当時どこに侵略する国が、残っていたというのでしょうか。
みんな西洋人という、泥棒が居座っていたのです。その泥棒を追い出しにいった日本を、逆に泥棒扱いしているのが、今の日本の世論であります。
これでは、祖国に誇りの持てない日本人が増える一方です。
たしかに物事には、「光と影」があり、日本もいいことばかりではなかったでしょう。
戦場においては、いろんな日本人の悪い行為もあったと思います。
しかし、「光」はあったのです。
こんな世界情勢の中で、「アジアを解放する」という、「理想の光」を持っていたのであります。
それを現代の日本人は、特にマスコミなどは、「影」ばかりをあげつらい、一切「光」を国民に伝えようとはしません。
歴史というものを、確かな目で見てください。


次に、「日米・百年戦争」という観点について申し上げます。

一八五三年、幕末日本に「黒船」が来航しました。
これは、アメリカの東インド艦隊四隻が、日本と国交を結ぶために、現在の神奈川県横須賀・浦賀沖に現れたものでありました。
この以前にも何度か、西洋艦船は日本に来航してはおりましたが、みな帆船が主流で、黒船のように、鉄でできた真っ黒な船体に、
蒸気の煙をモウモウと吐きながら進む、本格的な軍艦は初めてだったのであります。
人々は恐れおののき、アメリカの意図するものは分らないまでも、その本腰をいれた有様に、国中が大騒ぎとなったのであります。

この時の黒船の司令長官は、有名な「マシュー・ペリー」でありました。
ペリーは本国大統領の親書を携えて、日本に国交を求めにやってきたのであります。
しかし「国交を求め」、なんて申しますと、なにか平和的なイメージを持ってしまいますが、この当時彼らのやったことは、ほとんど「脅し」でありました。
大体が、国交を求めるに際し、いきなり軍艦で来ること事体が無礼であるのに、彼らはその上、勝手に各地の港を測量したり、
空に向け大砲を何発も打ち鳴らしたり、ほとんど「宣戦布告」であったのです。

そのとおり、彼らアメリカの頭の中には、日本と「まともな条約」を結ぼうなんて気は、さらさらなかったのです。
結果、「日米和親条約」という、不平等条約を無理やり結ばされ、二百年にわたった日本の「鎖国時代」は、終わりを告げたのでありました。
以後は次々と西洋諸国との間に、同じような不平等条約が結ばれていったのであります。


アメリカは、かつての本国であったイギリスから独立したばかりで、その国力の増大に躍起になっておりました。
しかし、新興国であったアメリカ合衆国が、世界を見回したとき、イギリス、フランスなど「侵略の先輩」たちが手を付けていない、
その征服対象とする目ぼしい国は、最早、東アジアの、中国、日本ぐらいしか、残されていなかったのです。
といってもアメリカは、日本がそれほど欲しいわけではありませんでした。本音は、中国が欲しかったのです。
我々がかつてテレビでよく目にした、「西部劇」にあるように、とにかくアメリカは西部のような広い土地が欲しかったのです。
その中国を征服するにあたり、足がかりの「軍事基地」として、日本が欲しかっただけなのであります。
しかし、アメリカの野望は果たされませんでした。
本国において、奴隷解放をめぐる「南北戦争」が、起こってしまったからです。これによって、またまたアメリカは出遅れてしまったのです。

結果中国は、前述のとおり、イギリス、フランスの連合軍に、麻薬取引を断ったのを理由に、一気に攻め込まれてしまうのです。
そして敗戦を突破口として、中国には以後、西洋各国が、まるでハイエナのように乗り込んで行ったのであります。
イギリス、フランスはいうに及ばず、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア、少し遅れてアメリカといった具合です。

しかし出遅れてしまったアメリカではありましたが、もう一つ残されていた「的」があったのです。
「日本」であります。日本を「軍事基地」にするという、当初の目的であります。
日米戦争とは、百年戦争であるというのも、この点にあるのです。
つまり、百年前の「ペリー黒船来航」から、日本を「軍事基地」にしたいという、野望の「日米戦」は始まっていたのです。

そういう観点からみれば、昭和において、中国・国民党を裏から応援し、日本との戦闘を長引かせたことも、納得がつくというものです。
アメリカは日米開戦の背景を、十五年戦争だといい、その始まりを、「満州侵略」にあったといいますが、これまでの説明でもお解りのとおり、
そんな単純なものではなかったのであります。

日本は常々、満州とはアジアの生命線と考えておりました。
昭和七年の満州建国に際し日本は、「五族協和・王道楽土」というスローガンを打ち出しました。
つまりこれは、日本民族、漢民族(中国)、朝鮮民族、満州民族、モンゴル民族の五族が、それぞれ経済的に軍事的に協力し合って、
欧米の侵略からアジアを守り、そしてアジアのもつ精神文化を基調に、末永くみんなが豊かに栄えていこう、という大理想だったのであります。
白人優劣主義に対抗する、有色人種による、「抵抗力のある共同体国家」を創りたかったのであります。
ですから、たくさんの日本人も「満州開拓団」として、夢と希望を持って移住して行きました。当初だけで、五九万人いたといわれます。

皇帝は、満州王族・直系の「溥儀(ふぎ)」が選ばれ、行政その他も、ほとんどは満州民族がおこなっておりました。
ただ軍事面においては、日本軍が行っておりました。
この点が、マスコミや今の歴史家などが言う、満州は「日本の傀儡国家」だったという、論調であります。
しかしこの時代において、満州が日本の軍事力の保護なしに自立することは、到底不可能でありましたし、又他のアジア諸国の力においても、
無理なことだったのであります。
なにより国境線には、大国ロシアが、虎視眈々と満州を狙っていたことは、世界の常識だったのです。
まして現代の中国などのように、満州を侵略し、「東北部」などと勝手に名前を付けて、国名まで消してしまったことに比べたら、はるかに良心的であります。

しかし、現在の反日的な歴史家やマスコミなどは、それどころか、満州建国のことを、「中国侵略」などと、まったく筋違いなことを言っております。
歴史を知らない、本当の馬鹿か、中国共産党の回し者か、どちらかであります。

なぜ、世界が戦国時代のようなこんな荒れた時代にあって、こんなにも素晴らしい、理想を掲げていた国があったのだということを、
歴史家やマスコミ達は言わないのでしょうか。
一言ぐらい、言ってもいいのではないでしょうか。
その一言によって、歴史に興味のない、唯々反日マスコミの言うことを鵜呑みにし、祖国への誇りをなくしてしまった現下日本人の、
将来への光になるとは思わないのでしょうか。
現に、中国革命の父といわれた孫文も、満州再建については、このようなコメントを出しているのです。


「満州は元々、清国の王族である満州民族発祥の地である。
それは、清国の支配者にとっては故郷であるが、中国本土の住民の大部分を占める漢民族にとっては、異郷の地である。
そこを誰が管理しょうが、漢民族にとっては、それほど重大な問題ではない。
したがって、中国革命が成立すれば、満州は日本に任せたほうがいいだろう。いやむしろ、アジアの安定のためには、
そうすべきだろう。満州をこのまま放っておけば、ロシア領となることは間違いないのだ」と。

ただしかし、このようなアジア勢力の団結の動きは、当然白人列国の逆鱗に触れることでもありました。
アメリカを中心とした列国は、国連を通じて「リットン調査団」なるものを派遣し、クレームをつけてきたのであります。
これによって日本は国連を脱退し、益々白人列国から狙われる破目になったのであります。

以後は露骨に「日本潰し」が始まりました。
中国の軍閥、「蒋介石の国民党」に、アメリカは裏からどんどんと軍事援助をし、日本と戦わせ、それを長引かせたのであります。
いわゆるこれが、昭和十二年に始まった「日中戦争」と呼ばれるものです。
この戦いこそが、今の歴史観による、「日本が中国を侵略した」とよばれるものです。
しかし実際は、中国と戦争したのではなく、アメリカの代理の蒋介石・国民党と戦ったようなものなのです。

この当時中国国内には、大きくいって三つの政府がありました。
一つは、今いう「アメリカ支援の蒋介石・国民党政府」、二つ目は、「ソ連支援の毛沢東・共産党政府」、そして三つ目は、「日本支援の汪兆銘・南京政府」でありました。
ですから日本が中国を侵略したというのは、あまりにも短絡的な結論なのです。
日本は負けた結果、そう呼ばれただけの事なのです。
現に、汪兆銘の南京政府などは、日本のことを、中国を安定させるための恩人であり、協力者として最期まで信頼する、と言っておりました。

ましてや、今の中国共産党政府などは、日本と戦争したわけでも何でもなく、ただ火事場泥棒的に、日本との戦闘で疲れた蒋介石をスキをみて襲い、
台湾に追いやり、その後居座っている、いうなら「泥棒政府」であります。
そんな泥棒に、侵略者よばわりされる謂れは、まったくありません。

ともあれ、このような「日本潰し」の情勢がエスカレートした結果、あの有名な「ABCD経済封鎖網」となったのであります。
つまり、アメリカ、イギリス、オランダ、蒋介石の中国、が団結して、一切日本との交流をストップするというものです。
これによってアメリカやイギリスに、遠慮する国も出てまいりますから、実際は、経済的に言って、瀕死の状態に負い込まれたといってもいいでしょう。
そして極めつけは、日本に対する「最後通牒」ともいうべき、かの悪名高い「ハルノート」です。
戦後、日本の戦争犯罪を一方的に裁いた「東京裁判」において、その判事の一人だったインドの「パール判事」ですら、
「こんな、とても飲むことの出来ない条件を出されたら、モナコやルクセンブルクのような小さな国でも、戦いを決意したであろう」と言ったぐらい、
無茶苦茶な条件を突き付けてきたのであります。
例えて言うならこれは、日本は、経済的に、軍事的に、領土的に、もう一度江戸時代に戻れ、というような「命令書」だったのであります。
これによって日本は、対米問題を平和裏に収めることを、諦めざるを得なかったのであります

結果日本は、その活路として、「日米開戦・大東亜戦争」へと突入したのであります。
時、昭和十六年十二月八日のことでありました。
戦いの目的を、「大東亜共栄圏確立」と日本は命名いたしました。
これは、封鎖された石油資源確保と同時に、何度も申し上げておりますように、「アジアを白人の侵略から解放する」、という目的であったからであります。


日本はそのとおり、当初においては猛進撃を遂げ、わずか半年あまりにして、マレーシア、シンガポール、インドネシア、ベトナム、
ラオス、カンボジア、ビルマ、フィリピンなどから、すべて白人を追い出したのです。
しかし悲しいかな、絶対的な物量の差をもって、戦局は逆転逆転の繰り返しとなり、
運命の日、昭和二十年八月十五日をむかえ、日本は敗戦国となったのであります。

かくして敗戦国となった日本が、その降伏文書に調印した、「ミズリー号の調印」という、有名な場面がありました。
この調印式にわざわざアメリカは、百年も前の「黒船の旗」を、本国から取り寄せてミズリー号に立てたのです。
百年にしてやっと日本を征服することができた。やっと日本を軍事基地にすることができた、というアメリカの本音が、ここに現れているであります。
なにより、アメリカは現在も尚、日本列島のいたるところを、軍事基地にしてるではありませんか。
これは、日本を軍事基地にするという、「百年の悲願達成」以外の何者でもありません。

このように、大東亜戦争、日米決戦とは、現在の世論の大多数を占める、決して単純な日本による「侵略戦争」ではないということを、
「終戦記念日」をむかえるにあたり、強くお訴え申し上げるものです。


平成21年8月15日





八月九日 ロシアの非道を忘れるな!


本日八月九日は、日本に二度目の、人類史上からいっても、二度目の原爆が、長崎に落とされた日であります。
約七万人の方々が、瞬時にして亡くなられた、我国にとっては絶対に忘れてはならない日です。

あらためてここに哀悼の誠を捧げたいと存じます。

さて、我々日本人にとって、もう一つ忘れてはならない「八月九日」があります。
それは、昭和二十年八月九日を境にして行われた、ロシアによる、日本への非道の歴史であります。
我国にとって絶対に、「笑って話すことの出来ない国」、それがロシアなのです。

第二次大戦末期、ロシアはそれまであった「日ソ中立条約」を一方的に破り、アメリカとの戦闘で弱りきっていた日本に、
いきなり攻め込んできて、たくさんの非道を行っていきました。

かつて、その遡ること三年前、ドイツがロシアに、怒涛の進撃を行っていたとき、あと一歩、日本がレニングラードという地に、
援軍を出してさえくれれば、大国ロシアを落とせる、という場面がありました。
しかし日本は、いかに同盟国のドイツの要請とはいえ、ロシアとの間には、昭和十六年に交わした中立条約があるから、
それはできないと断ったのです。
あくまでも、実より信義を大切にしたのです。
にもかかわらずロシアは、簡単に唾を吐き捨てるように、約束を破りました。
かくして、このゴタゴタの中で、我国の北方領土は奪われ、現在に至っているのであります。
みなさん、いまこそ国民の総意をもって、強盗ロシアから、北方領土を奪い返さなくてはなりません。

いまでこそ、北方領土問題の解決は、国民全ての願いのように言われておりますが、少し前、と申しましても三十年ほど前は、
ほとんど人々の話題に上っていなかったのです。
たしかに政府の交渉は、細々と続けられてはいましたが、まともな外交テーブルに就くには、至らなかったのです。
理由はいくつかありました。
交渉相手の、当時の「共産国・ソ連」の力が大きすぎ、最初の受付の段階で、ハネ返されておりました。
まして平和条約を結んでいないソ連は、いわば敵国であることから、それを強く持ち出すことは、場合によっては戦争をも意味したからであります。
それともう一つは、当時の日本の大衆の空気が「左」、すなわち「共産主義」に傾いており、というより「流行」していた、と言ったほうがいいでしょうか。
ですから、その共産主義の盟主ともいえる、ソ連の不利になることを望まない人々が、日本には沢山いたのです。
だから「沖縄返還」ほどの、盛り上がりはありませんでした。

時は流れ現在、ソ連は崩壊し、共産主義という流行病(はやりやまい)からも覚め、やっと北方領土問題という、
筋のキッチリとおった正論が正論として、まともに議論されるようになったのであります。
そこでまず申し上げたいことは、北方領土とは、いったいどの地域を指していうのかということです。
一般的にいう北方領土とは、現在政府が主張している「歯(はぼ)舞(まい)、色(しこ)丹(たん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)」の四島を
指すことは周知のとおりです。
確かにこの四島については、今まで一度も外国の領土になったことはありません。正真正銘我国の領土です。
でも本来の筋からいえば、奪われた時期、すなわち昭和二十年当時に保有していた領土を、その対称にすべきではないでしょうか。
つまり、昭和二十年当時日本領だった、カムチャッカ半島までの北千島、中千島、南千島の「全千島列島」および、
北緯五十度をもってした「南樺太」がそれでありましょう。
たしかに日本は、昭和二十六年の講和条約において、千島と南樺太は放棄する、とした文章に調印をしてはおります。
しかし調印はしたが、その帰属先は一切決まっていないのです。
まして当時のロシアなどは、この条約式そのものを無視していたのですから、何の権限もありません。
つまり、帰属先の一番の有力候補は、日本ということになるのです。
ちなみに申しますと、前述の北方四島については、千島列島ではありません。
これは花咲郡花咲町という、北海道の一部なのであります。


それともう一つ強調しておきたいことは、我々が普段、北方領土問題を指して言うとき、感覚的には沖縄同様、戦争に負けて、
その条件に取られたという扱いをしがちです。
しかしその表現は正しいとはいえません。なぜなら、沖縄はたしかに、日本が正式に宣戦布告した相手に負けて、取られたものです。
変な言い方ですが、だから納得できます。
でも北方領土はちがいます。
当時ロシアとは、何度も申し上げますが、中立条約を結んでいて、宣戦布告どころか、
むしろ長引く戦争の仲裁を依頼しようとしていたぐらいなのです。
にもかかわず当時のロシアは、日本がほとんど戦力を失った末期の中、突如条約を破棄し、怒涛のごとく襲ってきたのです。
かかる襲撃は、日本が連合軍との戦闘を停止した、昭和二十年八月十五日以降も続けられました。
一連の襲撃の経過を申しますと、

昭和二十年八月八日、ソ連一方的な中立条約破棄宣言
同年、八月九日、ソ連軍旧満州に侵攻
同年、八月十一日、ソ連軍南樺太に侵攻
同年八月十八日、ソ連軍北千島に侵攻
同年八月二十五日、ソ連軍中千島に侵攻
同年八月二十八日、ソ連軍南千島に侵攻
そして、同年九月一日、ソ連軍は北方四島に侵攻したのでありました。

このようにロシアの攻撃は、日本が連合軍に降伏し、武器を捨てた後のほうが、むしろ活発に行われております。
かつて旧ソ連のゴルバチョフ書記長は、その弁舌の中で、北方領土のことを、「我々が勇敢に戦った結果によるもの」、
という表現を使っております。
しかしこれの、どこが勇敢な戦いなのか。
ただどさくさにまぎれて、盗んだだけではないか。火事場泥棒ではないか。
まさしくロシア(ソ連)とは、泥棒の中の泥棒、泥棒の風上にも置けない、泥棒なのであります。

さらにロシアは、この進撃によって、当時の満州や中国大陸にいた軍人はもとより、民間人婦女子にいたるまで、
二十万人を超える日本人を殺し、六十万人を超える軍人を、極寒凍るシベリアの地に抑留したのであります。
そこで日本人捕虜達は、想像を絶する生活を強いられたといいます。
結果、七万人といわれる人々が、その強制労働に耐え切れず、死んでいったのであります。
人々は、満足な墓も建てられることなく、ゴミのように、大きな穴を掘った中に、まとめて捨てられたといいます。
懐かしい遠い遠い祖国を望み、さぞや悔しく、悲しい最後だったことでしょう。

ちなみに申しますと、明治時代、日露戦争当時の、ロシア人捕虜収容所跡地が、愛媛県松山市にあります。
この松山市では、平成の現在においても、当時収容中に亡くなったロシア人墓地の前で、毎年懇ろな供養祭が執り行われております。
これが日本人とロシア人の、人情の違いなのです。

又、この日本人のシベリア抑留について、当時日本の政治家の、対照的な話があります。
一つは、社会党の「戸叶(とかの)里子」のことです。
シベリア抑留というのは、昭和二十年から昭和三一年まで行われたわけですが、この途中ロシアは、自らの弁護と宣伝のため、
日本の政治家の現地見学を許可しました。
そこで選ばれたのが、同じ思想をもつ、社会党の戸叶里子だったのです。
戸叶は現地において、日本人捕虜たちと同じ食事をしました。
そのとき戸叶は、「こんな不味い物を毎日食べているのか」、といったそうです。
ましてそのときは、戸叶が来るということで、普段よりも「マシなもの」を、出していたにもかかわらずです。
そして、あるとき、日本人捕虜の一人が、いかにこの状況が酷いか、という事を記した手紙を、戸叶にこっそり渡しました。
しかし、日本に帰ってきた戸叶は、後日国会において、「彼らは大変大切にされていて、食事も決して悪くない」、
という嘘の報告をしたのであります。
そしてあろうことか、日本人捕虜が、そのとき命を賭けて預けた手紙を、握りつぶしてしまったのであります。
後年、この日本人捕虜が帰国したとき、そのことが大きな問題になった事は、当時の新聞記事でも明らかであります。

もう一つは、自民党の「鳩山一郎」のことです。
昭和三一年の「日ソ共同宣言」を前にして、他の国会議員からの、北方領土問題の解決を第一の懸案にしなくてはならない、
という声に対し、鳩山は、「たしかに北方領土問題は大切だが、領土は逃げない。
しかし、人の命は、明日をも知れないのだ。
まずはなにをおいても、抑留されて苦しい思いをしている人々を、国に帰してあげることだ」、と言ったのであります。
同じ日本人にして、この違いは何でありましょうか。


もう一つ、ロシアの非道について申し上げます。
皆さんの御記憶にも、まだまだ新しい、毎年のように日本に、肉親探しにやってきていた「中国残留孤児」は、当時ロシアが満州に進撃し、
不幸にも親の手を放れた、子供達なのであります。
とにかく多くの親たちは、子供だけは助けたいという一念で、当時現地にいた満州人に預けたといいます。
現在よく言われている論評に、彼ら孤児たちは、日本の軍国主義の悲しい犠牲者だ、というのがありますが、筋違いもいいところです。
彼らこそは、ロシア人の一方的な非道によって生まれた、犠牲者以外の何者でもありません。

さらに満州の悲劇では、「赤十字看護婦、集団自決事件」という、話があります。

中立条約破棄の後、進撃したロシア軍は、当時満州にいた、日本の赤十字従軍看護婦三十四名を、捕虜としました。
表面上の理由は、負傷したロシア兵の看護、ということでしたが、実際は違っていたのです。
毎日のように一人二人と、軍部の方に呼び出されては、消えてゆく看護婦たち・・・・
つまり彼女らは、「軍の娼婦」として利用されていたのです。
呼び出された女性たちは、二度と宿舎には戻ってこず、そのままロシア軍の建てた、娼婦小屋に移されたといいます。
そんな中に事件は起きました。
残った看護婦さん達の内の二十二名が、そのような屈辱を恥とし、お互い手を紐で結び合って、服毒死を遂げたのであります。

現在も尚、その彼女たちの供養は、生き残った当時の看護婦さんを中心に、各地の心ある人々によってなされております。
その命日である六月二十一日に、毎年、さいたま市所在の、彼女らの霊を祭る「青葉慈蔵尊」の前で、静かになされているといいます。

女性による集団自決というと、どうしても我々は、沖縄戦の「ひめゆり部隊」のことを思い浮かべてしまいますが、
ここにも、こんな悲しい事実があったのです。
しかしそれは現在も、ひめゆり部隊のように、広く公表されることはありません。
なぜなら、ひめゆり部隊の場合は、戦ったアメリカ軍の犠牲者というより、無謀な戦争をおこした、日本軍の犠牲者というふうに、
舞台が沖縄だけに、マスコミをはじめとする、反日的な人々の宣伝活動に、都合がいいのでしょう。
この悲劇のような、百パーセントロシアによる罪悪は、戦後長く、ロシアの前身である共産主義国ソ連に傾いていた、
左翼思想のマスコミには、極めて都合が悪かったといえます。

さて、最後に、この悲話に関する後日談をお伝えします。
当時の看護婦さんの一人が、やっとみんなが日本に帰れると決まった時、娼婦小屋で働いていた同僚の女性を、
むかえにいったときのことです。
女性は、どうしても日本には帰らないと言いました。
そのわけを問いただすと、彼女はいきなり裸になり、こう言ったといいます。

「私は見てのとおり、こんなひどい梅毒におかされている。私は、私をはじめとする日本人に対して、こんなひどいことをしたロシア人を絶対に許さない。
日本軍は戦争に負けたけど、私は一人でも多くのロシア兵に、この病気をうつすことで、戦い続けてやると・・・」

なんとも、言葉をなくす壮絶な話であります。
その後の彼女の人生が、どんなにつらいものであったかを考えると、胸が締め付けられる思いがいたします。

みなさん、現在ロシアは、曲がりなりにも世界にむけ、平和路線を強調し、日本にもなにかと金目的で近づいてきてはおります。
しかし、本日紹介したような、非道の過去を清算しないかぎり、我々日本人は、絶対にロシアを許さないという、強い意思を持ち続けなければなりません。
それがせめてもの、非業の死を遂げた、多くの日本人に対する、供養なのではないでしょうか。


平成21年8月9日





八月六日 「広島原爆投下の日」


本日八月六日は、人類史上初の「原子爆弾」が、「広島」に投下された日です。
死者、当時だけでも約二十万、その後の後遺症の数も入れると、約三十万以上の人々が亡くなっております。

あらためてここに、哀悼の祈りを捧げたいと存じます。

さて昭和二十年八月六日、マリアナ群島、アメリカ軍飛行基地を飛び立った、「B29・エノラゲイ号」は、「リトル・ボーイ」と名づけられた「原爆」を搭載して、
一路「広島」へと向かいました。
そして運命の時、午前八時十五分十七秒、エノラゲイを放れたリトル・ボーイは、四十三秒間ゆっくりと落下し、やがて広島市内・大田川に掛かる「相生橋」上空、
約六百メートルの空中で、炸裂したのであります。
そのとき発生した爆発の「キノコ雲」は、上空千五百メートルに及んだといわれております。
もちろん、落とした当のエノラゲイ号は、猛烈な勢いで急上昇し、ピット内が真空になるほどの、全速力をもって逃げ帰っております。
エノラゲイを迎えたアメリカ軍飛行基地では、大祝賀パーティが開かれ、深夜まで喜びの美酒に酔ったと申します。
このとき落とされた一発の原爆の威力は、B29戦闘機三千機が、一斉に空爆したにも、等しいといわれております。
日本への空襲の中では、一番の被害といわれる「東京大空襲」が、約三百機であったことを考えると、その十倍の威力が、
東京の十分の一にも満たない、広島市に落とされたのです。想像を絶するものがあったと思われます。

彼らアメリカが、広島を標的に選んだ理由には、色々と説がありますが、
大きくいうなら、このときの原爆のサイズが、その実験上、広島に合っていたこと、
軍事施設が集中していたこと、
アメリカ人捕虜収容所が無かったこと、
などが挙げられております。
がしかし、捕虜収容所がなかったというのは、彼らの勘違いで、実際には小さな施設が一つあり、このとき約二十名のアメリカ人が、被爆で死んでおります。

毎年八月六日、広島においては、「原爆慰霊祭」が執り行われます。
しかしこの慰霊祭、加害者であるアメリカ要人の参加は、過去に一度もありません。
彼らアメリカが、日本のことを曲がりなりにも同盟国と呼ぶのなら、この問題は絶対に避けては通れない、必ず実現しなくてはならない、問題なのではないでしょうか。

彼らはことあるごとに、二つの原爆投下のことを、日本がいつまでも戦闘を引き伸ばし、「ポツダム宣言」を受諾しなかったからいけないのだといいます。
無謀な戦いをいつまでも続けたから、それを諦めさせる意味で、やむを得ず原爆を落としたのだと言います。
しかし、たとえどんな理由があろうと、あんな凶悪な爆弾を落としていいなんて理由は、この世には絶対に存在しません。
それになにより、当時最早日本には原爆など使わなくても、まともな戦闘能力など残されていなかったことは、当のアメリカが一番よく知っていたはずです。
それでも百歩譲って、彼らの言う、原爆が日本に、早期降伏を促すものであったとしても、投下は一発で十分過ぎるではないですか。
わずか三日後の、長崎投下はいったいなんだったのでしょうか。
答えは一つしかありません。
「実験」だったのです。
原爆によって実際どれだけの人間が死ぬか、日本人を使って「人体実験」をしたのであります。
もっといえば、それは彼ら白人が常々「下等動物」と考えている、「有色人種」でなくてはならなかったのです。
現に、当時同じく敵国であったドイツ、イタリアには、一発も落とされてはおりません。


ちなみに、この原爆の後日談として、第二次大戦後、戦勝国代表の一人であるイギリスの「チャーチル首相」が、その記者会見で「Vサイン」をしました。
ピースサインともいいます。みなさんもよく、写真なんか撮るときにされると思います。
いわゆるこれは、「勝利のVサイン」であると同時に、この勝利によって、世界に平和がやってきた、という意味であります。
ですから以後、Vサインのことを、「ピースサイン」と呼ぶことが世界中に流行したのでありました。
しかこれには、もう一つの意味があったのです。
チャーチルが後日、マスコミに語ったところによると、あのときのVサインの意味は、Vではなく、数字の「2」だったのです。
つまり、「二発の原爆を使って世界に平和をもたらした」、
という「ナゾかけ」だったといいます。
被爆国の我国にとっては、なんともやりきれない話です。
ですから我々は、アメリカ、イギリスのこういうふざけた考えに対しても、真剣に抗議していかなくてはならないのです。

しかしどうでしょうか皆さん。
現在我国の風潮として、かつての戦争に対し「加害者意識」が強すぎ、この原爆においても少し焦点がぼやけております。

広島の原爆慰霊碑には、こう刻まれております。
「過ちは繰り返しませんから・・・・・」
これではまるで、原爆の責任は日本にあったと、言わんばかりではありませんか。
まったく植民地根性もいい加減にしてほしいものです。
何度も申し上げますが、原爆投下は、アメリカの罪悪以外の何者でもありません。
ですから慰霊碑の文字は、「二度とあやまちを繰りかえすな・・・・・・アメリカ合衆国」と、はっきり刻むのが筋であり、
亡くなった方々に対する最低の礼儀であります。
慰霊碑を管理する「広島市」に対し、その点について、心ある対処を、求めるものです。

ちなみに余談ながら、一部の市民グループの間で繰り広げられている、様々な平和運動についてもそうです。
彼らは時として、日本の「歴史非難」をテーマにすることがあります。
「日本が悪いことをした、日本の軍国主義がいけなかった、世界に誤らなくてはいけない」
「日本も」ならともかく、彼らのいうのは、いつも「日本だけが悪かった」を、戦後の占領教育そのままに唱え、日本の近代史を平和の敵と決め付けております。
当時には、当時なりの時代背景や情勢があったのです。
戦わなければ平和が守れない、ギリギリに迫られた状況の中で、愛する者を守るための命のアンテナが感じ取った、必死の思いがあったのです。
それを今の、平和ボケな陽だまりの中で、安全地帯の中で、「平和」という言葉を、まるで壊れたレコードのように、何も分らない子供たちまで引っ張り出し、
呪文のように唱えております。
涙と祈りと命をもってした、日本の近代史を、そんな「お遊びの平和運動の犠牲」にする事は、決して許されません。
なんでもかんでも、平和という言葉を口にすれば、物事すべて解決する、誰も口を挟めない、そう思うこと自体が、平和を言葉で遊んだ、
祖先の名誉を泥だらけにする、罪深いエゴだということに、気が付くべきなのです。

本当の平和運動というのは、今実際に平和を壊している、たとえば中共や北朝鮮や中東に対して、身体を張って厳しい目をむけるのが、本道というものなのです。
「平和運動自体が、けっして平和じゃない」、ということを知るべきなのです。


それと原爆にまつわる、あまり知られていない話として、昭和天皇様の、「マッチ爆弾秘話」というものがあるのを、御存知でしょうか。
戦争末期、当時日本軍・大本営の杉山参謀総長は、秘かに日本においても、原爆の開発を進めていたそうです。
マッチ箱一個の大きさで、巨大軍艦を吹き飛ばすことができることから、「マッチ爆弾作戦」と呼んでおりました。
ドイツからプルトニュウムを運び出し、長野の山奥で研究に研究をかさね、いよいよ実戦で使えるとなったとき、陛下にそれを言上したそうです。
しかし陛下の答えは「ノー」でした。いかに我国の勝利のためとはいえ、多くの人命を瞬時に奪い、未来にわたり子孫を苦しめ、
多くの自然、多くの生きとし生けるものを破壊することは、御先祖や、神々の意思に反することだと思われたのです。
みなさん、「終戦の詔勅」という、終戦時に陛下の発せられた文章を一度読んでみてください。図書館や、インターネットでも調べることができます。
「・・・・・・・・敵は新たなる爆弾を使用して」というところに、「残虐なる」という文字を、わざわざ訂正して書き加えてあります。
またその後に「・・・・これ以上戦いを続け、敵にこんな爆弾を何度も使用させることになれば、わが民族の滅亡どころか、人類の滅亡にも、つながりかねない」
という内容が、はっきりと書かれてあります。
そこにこそ、陛下の人類愛、世界平和に対する大御心(おおみこころ)があるのであります。

かつて、陛下は広島の原爆投下について、マスコミの質問に、こうコメントしたことがありました。
「広島には大変気の毒だが、あのような状況なので、やむをえなかった」
以後、この言葉尻を捉えてマスコミなどは、「陛下は冷酷だ」、と言わんばかりに、折りに触れ報道します。
とんでもありません。その辺の薄汚れた政治家や、財界人とわけが違うのです。
陛下の言葉には澱みがないのです。駆け引きや、言い訳や、建前がないのです。
陛下が、広島は気の毒だった、と言えば、本当に心からそうお感じになられていることであり、やむをえなかった、という短いお言葉には、
様々な身を切られるような御無念が、込められているのであります。
そのような純粋無垢な陛下を、「良心の父」としていただく日本こそが、世界一の平和主義国であることを、私達は心から理解し、
誇りに思わなくてはなりません。
平和運動に取り組む市民グループにおいても、占領体制受け売りの日本史非難を、馬鹿の一つ覚えに振り回すのではなく、このような、
天皇国日本の本質という点についても、研究してみてはいかがでしょうか。

ちなみに、本日八月六日、元自衛隊・幕僚長の「田母神俊雄氏」が、「広島の平和を疑う」と題し、広島市で講演を行うことになっております。
それに対し、現地広島では、色々と物議を醸し出しております。
田母神氏いわく、世界で唯一の被爆国である我国こそが、世界で最も核を有する権利があり、二度と核兵器の被害に遭わないためにも、
国際社会の発言力という点においても、核武装は絶対に必要だと・・・・・・

たしかに、何をキレイごとを言っても、核兵器は現存し、それが裏付けとなって、国際社会の発言力が決定しているということは、どうしょうもない現実であります。
あらゆる理不尽をも、最終的には核大国の前に屈服し、受け入れてしまっているというのが、悲しいかな現下日本の姿なのです。
前述の、陛下の願いもむなしく、世界が核を有する前ならともかく、持ってしまった以上は、タイムマシンでもない限りは、最早核を無くすことはありえないのです。
最近では、「オバマ・ブーム」もあり、広島長崎では、本気でオバマ大統領が、核兵器廃絶に努力してくれるものと思っております。
しかし、オバマが本気で核兵器廃絶考えているなら、まずはその被害者の御魂に頭を下げ、その誓いをたてることから始めるのが、
最低の筋であり、最初の入り口なのではないでしょうか。
ちゃんと現実をみてください。
「核廃絶」という「絵にかいた餅」は、どこまでいっても「絵」であり、美しく眺める事はできても、食うことはできません。
であるなら、真の平和国家の本質をもつ日本が、他国を抑止するため、世界平和のため、核武装の必要性は、やむをえない大人の分別であり、
「時代という罪人」を裁くための、「諸刃の剣」ともいえるのではないでしょうか。

ともあれ、本日の「広島原爆投下の日」あたり、犠牲者の方々への深い哀悼の祈りを捧げると共に、原爆慰霊祭へのアメリカ大統領・参列、
そして真の国家・国防の在り方、平和運動の在り方というものを、強くお訴え申し上げるものです。


平成21年8月6日





本日七月七日は、昭和十二年、一九三七年、
「盧溝橋事件の日」です


これは、日本が昭和二十年の第二次大戦の敗戦に至るまで、当時の「中国・国民党軍」と約八年にわたった戦闘の、そのキッカケとなった事件であります。
一般的には「日中戦争」と呼ばれており、現在の中国共産党政府が、何かに付けて「恐喝」のネタに使う、お馴染みのものです。
「日本の軍国主義が中国を侵略した」、「日中の悲しい過去を、日本は忘れてはならない等々」とんでもありません。
悲しい過去を作った張本人は、「中国共産党」そのものなのです。
何でもかんでも、大嘘つきの中国共産党の、言いなりになるのではなくて、歴史をよく調べてみてください。
時代背景、情勢というものをよく見て下さい。
現在の中国共産党政府に対しては、爪の垢ほども反省する必要のないことが、よく解かります。

まず第一に、日本は、現在の「中国共産党政府」と戦争したのではありません。
むしろ、共産党のライバルであった、現在の台湾の「国民党政府」と戦ったのです。

第二に、当時の中国は、最早「国」ではありませんでした。
イギリスとのアヘン戦争の敗北以来、十カ国に及ぶ、西洋各国が中国大陸に入り込んでおり、それぞれが占領地をもっておりました。
そこに、明治三十三年、「義和団事件」という、二十万からなる、大規模な宗教団体の反乱がおきました。当然,弱りきっている中国政府に、
鎮圧する力はありません。
彼らは暴れ回り、外国大使館まで襲う勢いでした。
そこで各国は、自国の居住民の安全のために、軍を出動させたのです。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストラリア、そして日本であります。
双方多数の死者を出し、反乱は鎮圧となりましたが、以後は益々、中国政府の威信はなくなり、ついに日本でいう明治の末期に、
三百年間中国大陸を支配した、「中国・清朝政府」は、完全に滅びたのであります。
以後、中国大陸においては、次の支配を狙う、国民党、共産党、その他馬賊や軍閥など、とにかく戦国時代のような有様が、昭和二十年以降まで続いたのです。
ですから当然日本も、他の外国同様に、居住民の安全のために、軍を駐屯させておりました。
このことをもし侵略というのなら、他の西洋諸国も、みんな侵略になるわけです。それに、「国」というものが最早ないのに、何処の誰に対して、侵略なのでしょうか。
ちなみに、当時の大陸内の派閥を大きく分けるなら、
一つは、「アメリカ支援の蒋介石・国民党政府」、二つ目は、「ソ連支援の毛沢東・共産党政府」、三つ目は、「日本支援の汪兆銘(おうちょうめい)・南京政府」でありました。
このように、日本が中国を一方的に侵略したというのは、あまりにも短絡的な結論なのです。
日本は負けた結果、そう呼ばれただけの事なのです。
現に、汪兆銘の南京政府などは、日本のことを、中国を安定させるための恩人であり、協力者として最期まで信頼する、と言っておりました。

第三に、国民党との戦闘のキッカケとなった、本日記念日の「盧溝橋事件」についてであります。
昭和十二年七月七日、中国・北京の南を流れる、盧溝川に掛かる「盧溝橋」付近において、日本の駐屯軍が夜間演習をしていたところ、
ふいに闇夜から一発の銃弾が撃ち込まれたのです。
日本は慌てました。なにせ演習ですから、銃に弾は入ってなかったのです。それに、日本軍の演習については、事前に近隣に通告し、承諾を得ておりましたから、
攻撃される理由はなかったのです。
ちなみに付近には、「蒋介石」率いる「国民党軍」が駐屯しており、当然日本は、国民党が不意を突いて撃ったものと、思ったのです。
しかし、同じく国民党にも、銃弾が撃ち込まれていたのであります。
かくして、これによって日本と中国・国民党は、八年に及ぶ泥沼の戦闘へと入っていくのです。

さて、ではこの両軍に撃ち込まれた銃弾の犯人は誰なのでしょう?
「共産党」であります。
「毛沢東」率いる「中国共産党」であります。
まるで、サスペンス映画、スパイ小説のような話ですが、これは事実です。
現にはっきりと、共産党はそれを「自白」しているのであります。
日中が戦闘に入った後、共産党首脳部は、
「盧溝橋事件は、我が優秀なる劉少奇(りゅうしょうき)同志の指示によって行われたものである」
というビラを、内部に希望を与える意味で流しているのです。
ちなみに「劉少奇」とは、後の国家主席になった人物です。
又、昭和二十一年、「中華人民共和国」の成立の日の演説でも、当時の周恩来(しゅうおんらい)首相はこう言っています。
「あの時、我々の軍隊が、日本と国民党の双方に発砲し、両者の相互不信を煽って、停戦協定を妨害し、我々に今日の繁栄をもたらしたのだ」
とこのように、公の場で自白しているのであります。
又このとき周恩来は、「漁夫の利」という言葉も使っております。苦労せずに利益を得る、というような意味です。
つまり、日本との八年に及ぶ戦闘で疲れきった国民党を襲い、台湾に追いやり、中国大陸の支配権を手にすることが出来た、ということです。
もっと解かりやすくいうなら、「火事場泥棒」であります。
ですから、反省とか、謝罪とか、戦時賠償とかという言葉は、そっくりそのまま現在の「中国共産党政府」に、ぶつけてもいいくらいなのです。

第四に、このような経緯があるにもかかわらず、現在の中国共産党政府は、昭和四十七年の「日中国交回復宣言」において、ふてぶてしくも、
まったく筋違いな「戦時賠償」を求めてきたのであります。
これには弱腰の日本政府も、反論しました。
すでにそのことは、昭和二十七年に「日華平和条約」を、蒋介石・国民党と結んだことで、済んでいると・・・・・
ちなみに蒋介石は、日本の敗戦時、「以徳報怨(いとくほうおん)」という言葉を使いました。
これは、徳をもって恨みを忘れるというような意味であります。
ですから日本では長く、この蒋介石に対し恩義を感じてきておりました。

敗戦後の、日本軍の大陸からの引き上げに協力してくれた。
五百億ドルといわれた、戦時賠償もゼロにしてくれた。
天皇国体も壊さないよう、助言してくれた、などであります。

しかし、このことは額面どおり受け取るには、若干の疑問が残ります。
大陸からの引き上げについては、日本軍がグズグズしていて、ライバルの共産党に、武器が渡ることを恐れたわけです。
だから、蒋介石は協力したのです。
戦時賠償についても、一旦は要求してきたのです。しかし、日本の在外資産が、そっくりそのまま手に入るのだから、いいではないかと、
親分筋のアメリカから言われ、引き下がったのであります。
天皇国体についても、日本人の天皇崇拝熱を考え、スムーズな「占領政策」のため、占領軍最高司令官マッカーサーが、絶対条件として、
他の戦勝国を説き伏せたからであります。

しかし、蒋介石・国民党は、なんといっても戦争当事者です。
ですからまあ、そのぐらいの恩は着せられても、致し方はないでしょう。
でも、共産党は違います。
こんな泥棒国家に、反省だ、賠償だ、なんて言われる筋合いは、まったくないのであります。

だからと申して、日本が中国より常に優劣意識をもて、ということでもありません。
せめて同じスタートラインに立って、物事の良し悪しを見なくては駄目だと、いいたいのです。
国交回復以後、日本が中国共産党に何をされてきているのか。
スタートラインを同じくした友好国というなら、許せないことばかりです。

かつての光華寮裁判にみる、日本の裁判に圧力をかけた司法権の侵害。
教科書問題にからむ教育への不当介入。
尖閣諸島への領土侵略。
核をはじめとした、ミサイル兵器の日本への照準合わせ。
終わりなき、戦争責任を盾にとった金融支援要求。
南京虐殺三十万というでっち上げ。
日本を敵と位置づける、自国民への徹底的な反日教育。
国内政治不安の目くらましに利用する、反日デモの放任。
そして、我国民族意識を足蹴にするような、靖国神社への不当な圧力、
年々過度を極める、在日中国人の凶悪犯罪など。

これに対し、日本政府は抗議どころか、毎年のように、返してもらう当てのない金を、献上し続けてきたのです。(平成十九年停止)
ちなみに、日本が現在まで金融支援してきた国の中では、中国が最高で、その回収率は最低でありました。
昭和五十四年の第一次円借款を皮切りに、現在までを合計すると、目に見えた金だけでも、「三兆四千億円」、まして寄付だ支援だの、
分けの分からない金まで入れたら、恐ろしい額になります。
ましてや中国政府は、この日本からの金融支援を、自国民には一切知らせてなかったといいます。
その理由としては、普段から共産党政府が、国策として人民に煽っている「反日意識」が、薄れてしまうからです。
もう一つは、「人民のため」という理由で、日本から金を引っ張っているのに、実はほとんどが軍事費に回っているから、言うにいえないのです。

現在日本政府は、年金問題をはじめ様々な政治失態により、国民からたくさんの税金をとることを、考えております。
だったらその前に、この恐ろしい額の、ODAという名の恐喝劇の実体を、きちんと国民に説明すべきでしょう。

しかし当の中国はどうかというと、そんなことなんとも思っておりません。当たり前だと思っております。
アジアの盟主である中国に対して、その召使いである日本が、尽くすのは当たり前と、考えております。
自らを「世界の中心の華」とする、「中華思想」の伝統精神によって、すべてを自分の都合のいいように置き換えているのです。
この考え方は、他の国に対しても同じように中国は持ち、そして行動に移しております。
チベット、モンゴル、ウイグル、南沙諸島への侵略などは、そのほんの一例と言ってもいいでしょう。

かつて中国は、万里の長城から外は中国ではないと、公言したことがあります。それは「始皇帝」以来、漢民族の長年にわたる伝統的な考えでもあるからです。
しかし中国は現在、その言葉とは裏腹に、チベットや、ウイグルや、満州や、その他五十を超える少数民族を、
「ここは我国の領土だ」といって侵略し、弾圧しております。
よく中国が日本イジメのときに使うセリフに、「かつて日本は満州を侵略した」というものがありますが、満州という名前すら消してしまい、
「東北部」などと勝手に名前を付けている、中国共産党の満州侵略を、彼らは今どう思っているのでしょうか。

それと最近では、あろうことか中国共産党は、南方の発展途上の国々に対して、自らの配下とするために、援助金をばら撒いているというのです。
こんな馬鹿にした話があるでしょうか。日本から恐喝した金を、よその国に援助しているというのです。まったく日本をナメきっています。
それに対して、現在の日本政府の「対中関係」の考えは、どのようなものであるかというと、
本音を申し上げれば、政府だって分かっているのです。友好なんて建前で、今の中国がどんなに無茶苦茶な国か、どんなに危ない国かを。
なのに日本政府は、馬鹿の一つ覚えのごとく、常に中国共産党の機嫌をとり続けております。
なぜでしょうか。
つまり政府は、中国と付きあって何がプラスになるかより、付き合わなければどうなるか、機嫌を損ねたらどうなるかという、マイナス面を優先しているからなのであります。
早い話が、ライオンに餌をやるようなものでしょう。やらなければこっちが食われるからです。
第一が、石油の安定供給の問題。中国がその気になれば、日本のタンカーの通り道である、マラッカ海峡の一つや二つ、いつでも封鎖しかねない。
第二が、経済難民の問題。中国政府が、今自国内で行っている弾圧を少しでもゆるめたらどうなるか。外国に自由に出ていってもいいと、一言言ったらどうなるか。
それこそ、とんでもない数の経済難民が、日本に押し寄せてきます。たいへんなことになります。
第三が、尖閣諸島をはじめとした、日本近郊へのヤケッパチの武力行使の問題です。

日本政府はこれらを恐れるあまり、中国共産党の行う大抵のことには、目をつぶっているのです。
悲しいかな、これが今の日本政府の、対中関係における全ての方針の、「根」なのであります。
したがって日本政府からすれば、マスコミや一部の著名人が、中国に対して無制限に負い目を持ち続けることの方が、有難いのかもしれません。
どんなに貸した金が戻ってこなくても、どんなに理不尽なへりくだりをつづけても、国内からは文句が出てこないからです。
逆に「中国極悪論」を唱える者たちのことは、日本政府にとっては、「親の心子知らず」といえるでしょう。

しかし、あえて申します。
それは最早、政治手腕でもなんでもないと。
たしかに、ライオンに人間の言葉は通じません。こっちが正しかろうがなんだろうが、奴らは腹が減ったら襲ってきます。
しかしだからといって、無条件に餌をやり続けていいというものではありません。能がなさ過ぎます。
まして今の中国共産党は、ライオンよりタチが悪い、麻薬中毒者のようなものです。
ライオンなら満腹になれば、餌を要求することはありませんが、麻薬中毒者は、薬を与えれば与えるほど、その後遺症から、凶暴の度合いが増してしまうのです。

もしも日本政府がこのまま中国共産党に対して、無軌道に筋違いな、反省とへりくだりを繰り返すなら、最早それ自体が「犯罪行為」であるということを、
知るべきでありましょう。


平成21年7月7日





沖縄戦について   


先般6月23日、第六十四回目の「沖縄戦・慰霊の日」と銘打った、マスコミ各社による報道がなされました。
しかし、毎年思うこととして、なにか「もう一つ足らない」気がしてなりません。
そこで今回、ページをお借りして、私の思う沖縄戦について、少し述べさせて頂きます。

沖縄戦が開始されたのは、昭和二十年四月一日のことでした。
攻めるアメリカ軍、五十四万八千名、
守る日本軍は、「牛島満・陸軍中将」以下、十一万六千名、でありました。

戦闘は、同年六月二十三日まで続けられ、
戦死者の数は、アメリカ兵、一万二千五百二十名、
日本兵、九万六千百三十六名、民間人については、九万とも十万とも、いやもっとだとも言われており、定かにはなっておりません。
とにかく、凄まじい戦いであり、「鉄の暴風」とも呼ばれた戦いでありました。

ここにあらためて、鎮魂の祈りを捧げたいと存じます。

又この戦いは、日米戦において本土で唯一の陸戦場になった、という事でも知られております。
しかし実際は、硫黄島や占守(しゅむしゅ)島なども本土であり、この両島も激しい戦場となっておりますので、その表現は正しいとはいえません。

さて、サイパン、硫黄島を失った日本にとって、またもや沖縄を失うことは、本土防衛上、ほとんど壊滅にも等しい状況でありました。
なんとしても、アメリカ軍の占領を許してはならなかったのです。
陸軍はもとより、海軍においても、「菊水戦」と銘打った、決死の「特攻作戦」を行ったのであります。

ちなみに、我々が「特攻隊」と言うとき、どうしても飛行機を思いがちですが、この菊水作戦では、様々なものが使われました。
もちろん主流は飛行機でありますが、ほかに、人間魚雷であるとか、人間ロケット弾であるとか、人間モーターボートであるとか、
究極は、爆弾そのものを風呂敷に包み、それを抱えたまま、戦車の下にもぐり込むという特攻も行いました。
最後には、日本が世界に誇った「戦艦大和」さえも、三千の乗組員と共に、片道燃料で特攻作戦を行ったのであります。
又民間人においても、「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり部隊」などの、女性部隊も多数戦闘に加わりました。

しかし奮戦空しく、六月二十三日、牛島中将の自決をもって、戦闘は終わりを告げたのであります。

矢(や)弾(だま)尽き 天地(あめつち)染めて散るとても 魂(たま)還り魂還りつつ皇国護らん

牛島中将の辞世であります。

さて現代において、このような悲惨な戦史を回想するとき、決まって出る言葉が、「日本は二度とこのような過ちを犯してはならない、
日本の軍国主義によってたくさんの悲劇が生れた、犠牲者が生れた、反省しなくてはならない、謝らなくてはならない」
特にマスコミなどが、そのような論調を振り回します。

たしかに戦争は悲惨なものです。殺し合いです。悪いことです。そんなことは五歳の子供でも分かります。
そうではなく、私たちがまず祖先に対しなすべきことは、何はともあれ、その痛みを分ってあげ、命を捧げてくれた事への、
感謝と、労いの気持ちを心から表すことではないでしょうか。
どうしょうもない時代情勢の中で、自分の守るべきものを必死で選択し、戦うしかなかった時代なのです。
死を目前にして、ギリギリに迫られた、愛する者を守るための命のアンテナが、なりふり構わず感じ取った、
決死の決断を理解してあげることなのです。
そこに、心からの感謝の誠を捧げてこそ、亡くなった方々は喜ばれ、浮かばれるのであります。
国や政治に対する非難などは、その後でいいのです。
とにかく感謝が先です、祈りが先なのです。

にもかかわらず多くの言論は、一方的な日本の歴史非難ばかりで、まるで亡くなった方々は、「犬死」のような言い方です。

「日本も」悪いところはあった、というならともかく、今の風潮は、「日本だけが」悪かった、というものばかりです。
これを丸呑みしようとするから、いつの時代においても、消化不良をおこし、論争が起きてしまうのです。
あたりまえであります。日本だけが悪かったという、一方的な押し付けを丸呑みすれば、「そうじゃないぞ」という人が、何時の時代も現れ、
消化不良をおこすのです。
それが証拠に、現在の弱腰政府がいくら、「日本は侵略戦争をした」、という統一見解を出しても、日本の戦争を弁護する発言は毎年起きております。
閣僚とか、官僚とか、そのたびに彼らは、マスコミや、他の政治家から非難を浴びて、責任を取らされています。
いい加減気が付くべきです。そんな一方的なやり方では、駄目だということに、納得しないということに。
でなければ、この論争は永久的に続きます。断言してもいいです。
ちょっと歴史を検証すれば分かることなのです。
当時日本が軍を進めたところには、実質的な独立国なんて、一国もなかったのです。

インドはイギリスに、
アラブはイギリス、フランスに、
オーストラリアは、イギリスに、先住民のアボリジニ族を追い出し、侵略統治されており、
中国は、アヘン戦争の敗北以後、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインといった国々が居座る中、共産党やら、
馬賊やらが暴れ回っていて、もう国ではなかったのです。
又中央・北方アジアでは、ロシアが支配権を独占し、
東南アジアにおいては、インドネシアがオランダに、
ビルマ、シンガポールはイギリスに、
フィピンはアメリカに、
ベトナム、ラオス、カンボジアはフランスにと、
それぞれ西洋白人に侵略統治されていたのであります。

そのような世界情勢の中で、日本はアジアに軍を進めたのです。当然戦った相手は西洋人です。アジア人ではありません。
たしかに、中国大陸においては、蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党という、一派閥とは戦いました。
しかし、この国民党のバックには、すでにアメリカがいたのです。いうなら日本は、中国人の顔をした、アメリカと戦ったのであります。

ともあれ、アジア各国に長年居座る、西洋白人という泥棒と、日本は戦ったのです。
その泥棒と戦い、力尽きた日本を、一方的に泥棒扱いしているのが、今の時代の空気です。
こんなもの、何年経っても納得できるわけありません。

それといま一つ、沖縄県民の方々に、お叱りを覚悟で申し上げます。
それは戦争についての「被害者意識」の問題です。
よく耳にする言葉として、「我々は日本の犠牲になった、戦地になった、沖縄だけが被害を被った」など、
全ての方とは言いませんが、よく聞こえてきます。
まるで加害者が日本で、沖縄は、その被害者のようにも聞こえます。
御存知のように、あくまでも戦争相手はアメリカであり、というよりも「時代だった」と言った方がいいかもしれません。
それと、先にも申しましたように、本土の中で戦場になったのは沖縄だけではありません。もちろん、民間人が犠牲となったのも沖縄だけではありません。
硫黄島や占守島は、直接地上が戦場になっており、空からの攻撃でいえば、広島・長崎の原爆は言うに及ばず、
ほぼ日本全域が絨毯(じゅうたん)爆撃の被害にあっているのであります。
行方不明者の数も入れれば、約百万人の民間人が亡くなっているのであります。
これは最早、一個の人間や、国単位ではどうすることも出来なかった、「時代の悲劇」といってもいいでしょう。
それと、当時を知る沖縄県民の方なら、ほとんどの人が、畏敬と感謝の気持ちを今も捧げ、石碑まで建てている、
戦時中の伝説の知事さん「島田叡(あきら)」のことを忘れたのでしょうか。
島田知事は、戦争末期に兵庫県から派遣された、沖縄県民でも何でもないにもかかわらず、最後まで防空壕を走り回り、
県民を慰め続け、最後まで日本の正義を信じ続け、投降にも応じず生涯を閉じたのです。
現在マスコミが伝える記録では、ギリギリに追い詰められた日本軍人が、沖縄県民を虐待するというのが、
まるでお約束のように報道されておりますが、色々な人がいたのです。
公人の中にも、軍人の中にも。
そういう「義の人」まで、悪者にしてしまう一方的な日本の歴史非難は、どうかやめていただきたいと思います。

たしかに沖縄は、昭和四七年までの二十七年間、アメリカに占領され、本土に復帰できませんでした。
又日本に復帰した後も、沖縄はアメリカ軍の基地の島として、今もあり続けています。実質、占領がまだ続いているのと同じです。
しかしだからといって、その恨みの矛先を日本に向けていても、何の解決にもなりません。
戦争被害について、一個人の恨みを主張しだせば、日本全国ほぼ全員が、ということになりかねないのです。
又、実質占領ということでいっても、現在は「憲法と安保」の「足かせ・くびき」によって、日本全土がアメリカの植民地のようなものなのです。
自らの国を自らの手で守れない、アメリカ軍に守ってもらっている、守れる力があるのに金を出して守ってもらっている。
「子供を戦場に送るな」という美名の裏で、アメリカの子供が日本守る?ために、軍服を着ていることに対して、
なんら矛盾を感じていない。
これは最早平和主義でもなんでもなく、ただのエゴと卑怯者の集団です。
ですから、そんな日本全体が、「本土に復帰」していない状態なのです。

ともあれ、沖縄とか、日本とか言わず、同じ日本人として皆なが、アメリカからの「真の本土復帰」の意識を、高めていくことこそが、
急務なのであります。


平成21年6月29日



 
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