大日本赤誠会城東本部岩崎輝雄の
パラオ(ペリリュ−島)遺骨収集奮戦記

平成16年9月30日


昭和19年9月、大東亜戦争時、南方戦線でアメリカと戦った日本は
太平洋上でサイパン、グアムと奪われ、 パラオは帝国陸海軍に残された最後の外地基地となり、
フィリピン本土の制空権の要、日本本土絶対国防圏であった。
本年9月15月はその最後の決戦の場となった、パラオ共和国において
日米の大激戦が行われ玉砕されて60周年に当たる。
そして、アメリカの統治下から独立、パラオ共和国と宣言してから10周年に当たる。
この機会に我々、大日本赤誠会城東本部は友好団体と共同で戦没者の遺骨収集と
慰霊を目的に現地に渡航する事となった。
理解し、協賛して参集した同志、60名の参加となり、
靖国神社より慰霊の祝詞を預かって出発となった。

パラオ共和国は現在、人口2万人足らずの大変親日的な小さな島国である。
成田⇔グアムまで3時間、グアム⇔パラオ2時間の距離でフィリピンの南東に位置する。
最大の激戦地ぺリリュー島は更に高速ボートで約1時間である。
現在700人ほどが住む海の観光地であり、此処で60年前に
我々の先達が日本を護る為に大国アメリカを相手に
大死闘を展開したとは信じられないくらい穏やかな南洋の小島である。

この国は16世紀にスペインが占領、18世紀にドイツに売却、第一次世界大戦後日本が委任統治国となり
南洋庁の支局を置き、日本人が移住(最大事2万5千人)、大東亜戦争後、
アメリカ合衆国の信託統治下に入り、10年前に独立した国である。

なぜ親日的かといえば、第一次大戦後の委任統治時代、学校や病院・道路など
各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへと
その姿を変貌させていったからであり、また日本統治の開始にともない日本語の教育が
パラオ人に対しても行われるようになった。その結果として現在でも日本や日本語に親しみを持ち、
子供に日本風の名前をつけるパラオ人も多い。
パラオ語には多くの日本語の言葉が取り入れられており、また、パラオにある唯一の公立高校では、
1964年から選択科目として日本語を取り入れている。

そして、近年にはクニオ・ナカムラ大統領が、 公正な中学校の歴史、公民教科書の発行を目指す
「新しい歴史をつくる会」(西尾幹二会長)の賛同者に参画、声明文に署名した。

日系二世のナカムラ大統領は、日本統治時代の行政や対戦中の日本軍の戦いぶりを称賛し
「日本の保護領になれないか」と発言するほどの親日家で知られる。
署名に際し、ナカムラ大統領は 「自国の歴史を正しくとらえ直そうという日本国民の努力を支持する」
とのコメントを書き込んだほどである。

このパラオ共和国ぺリリュー島において、我が先達たちは、兵力14倍、航空機200倍以上、
戦車100倍、重火砲1000倍の敵米兵に対し、持久戦に持ち込み、
全く補給なしに73日間この島を守り玉砕、その間、天皇陛下も毎日気にされ、臣下に状況を尋ね、
陛下の感状は3度に及んだほどで、ぺリリュー島の戦闘で戦死した日本軍将兵は10022名、
米側は約2000人が戦死したのである。

こんな話が残っております。当時、島には日本軍が進駐し陣地が作られ、
老人や村の若者達はその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れた。
自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという、
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…見せかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。

パラオの島民は、日本人を慕っており、ペリリュー島に住んでいた大人も子供も
日本兵とともに戦う決心をしていたが、

日本軍はこれを押しとどめ、夜間を利用して住民全員をパラオ本島に退避させ。
そうして昭和19年11月24日16時に、パラオ本部に中川大佐から軍旗・機密書類を
すべて焼き払ったことを伝える「サクラ・サクラ」の電文が届き、
27日までにはほぼ全員が戦死したのである。
 戦後、ペリリュー島に戻った住民達は夥しい日本兵の遺体を見て涙を流し、
「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。
ここに征服民族の本性を見る」として、日本軍の遺体を葬り、墓地を作り、自分達の島を守る為に戦い、
果てた兵士達を弔い、その墓を守り続ける事を誓ったそうです。
 現在でもこの墓地は島民の手によっていつでも綺麗に掃き清められ、
訪れる日本人は驚嘆とともに深い感動に襲われるそうです。
 また、1982年に建立されたぺリリュー神社の境内には、敵国だった米軍のニミッツ提督の
次のような言葉を刻んだ詩碑があります。

諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ

その激戦の地、パラオに未だ収集されていない、我々の先達のご遺骨が草むすかばねとして散乱したままで、
せめて骨片でも収集して日本本国へお迎え、またはならずともご慰霊にとの願いで今回の挙行であった。

9月12日に出発、先発隊の作成した調査資料、収集した情報を基に、
西海岸線にて発掘を始めるが発見できず、 更に追加情報を交えて検討、
発掘調査を行うが発見できなかった。
全行程6日間の、我々の日程の許す限りの挑戦をしてみたが60年のジャングルの変化は大きく、
情報ばかりが錯綜し、残念な限りであった。
また、作業の合間を見て、島内の激戦地をくまなく巡拝、各地で日本を守るんだ、
御国の為にと、戦われた先達の慰霊に勤めた。
ジャングルは変われども、激戦地の跡は凄まじいばかりで、
トーチカや司令部跡などは爆撃や銃撃の後が生々しく、
また、現在でも手榴弾や砲弾、野砲、戦車など島中至る所に散見でき、
涙なく過ごせる場所は一箇所もなく
現在の日本が、先達の尊い犠牲の上に成り立っていると言う有り難さを痛感する。

今回は遺骨収集という大目的は適わなかったが、
御国の為に戦われ散華された先達の慰霊が出来たことで、我々は少しばかり安心して帰郷することができた。
だが、先の大戦で日本は連合国を相手にアジアを救え、植民地を解放せよ、日本を護るんだと
外地で多くの戦いを強いられ、多くの先達を亡くした、
そのご遺骨の大半は未だ水漬くかばね、草むすかばねとなられたままです。
物理的に数千メートルの海底のご遺骨を収集することは適わないにしろ、
まだまだ出来ることはあるはずです。
千島で樺太で、満州で、ビルマで、スマトラで、、、、先達が命を賭けて我々を守ってくださったのです。

彼らの犠牲無くして、決して我々の現在は有り得ません。

全国民がもっともっと英霊に感謝し、靖国神社に御参りすべきではないでしょうか。

そして国家護持すべきではないでしょうか。


城東本部
本部長 岩崎 輝雄


パラオ共和国の位置図








  


    







黙祷






 
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